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国際政治経済学講義ノート 6(マルクス主義-マルキシズム)

国際政治経済学の主要な理論的アプローチのうち最後に登場するのはマルクス主義です。時代的にもいちばん若い理論的伝統です。

マルクス主義って「アカ」のこと?

その前に、また名称についてひとつ注意書きです。マルクス主義というのは周知のとおりマルクスという思想家の名前から由来しています。厳密にいうと、彼と彼のパトロンであり同伴者であったエンゲルスの思想を含みます。これにロシア革命の指導者であり、マルクスの理論を帝国主義論という形で国際関係に拡大したレーニン、この三人を祖とするのが国際政治経済学のマルクス主義です。

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Karl Marx (1818-1883)

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Vladimir Lenin (1870-1924)

彼らはみな思想家であるとともに革命家でもありました。しかし、国際政治経済学でマルクス主義として分類されるような論者は、必ずしも共産主義者ではありません。つまり革命によって共産社会を実現しようというイデオロギー的な目標を必ずしも有してはいません。ただ、マルクスたちの理論や方法論を自覚的に継承しているだけです。

ですから、論者のなかには「マルクス主義」という呼称を嫌って「ネオ・マルクス主義」、「構造主義(ストラクチュラリズム)」、「歴史的構造主義(ヒストリカル・ストラクチュラリズム)」とか舌を噛みそうな名称を用いる人もいます。しかし、マルクスらの思想から影響を受けているという意味に限定して、この講義では「マルクス主義」で統一したいと思います。もちろん、そうした政治的なコミットメント有している人もいますが、政治的な実践プログラムとしての「マルクス主義」と学問的アプローチとしての「マルクス主義」を混同しないようにしてください。

マルクス主義は理性を貴ぶ啓蒙主義の申し子であると同時に、不可視の「深み」を啓蒙の「明晰」に対置したロマン主義の申し子でもあります。だから哲学的には複雑で、リベラリズムやリアリズムと比較しても難解でとっつきにくいです。資本主義の崩壊過程についてはギルピンのテキストがよくまとめていますので、ここではマルクス主義の哲学的基礎のうち、国際政治経済学に関連するものを選んで解説することに留めておきます。

経済と人間的生

マルクス主義理論の基本理念は、まず史的唯物論(ヒストリカル・マテリアリズム)と呼ばれるものです。通俗的な意味のマテリアリズムは人間は物欲によって動かされるという意味ですが、マルクスのマテリアリズムはそういう意味ではありません。

人間は存在するためにまず身体を必要とする。物質的な必要が満たされないとこの身体は潰えてしまう。人間が歴史を持つということは、まず人間がこの身体的な必要を満たしてきたということです。

そこで歴史を考える際に、まず私たちが考慮に入れなければならないのは、人はいかにしてこの身体的必要を満たしてきたかということです。生殖と栄養です。生身の人間が生命を維持し、そして生命を再生産する平面です。

一般に哲学的思想というのは、こうした身体的なものを理論的な考慮に値しないものとして分析の対象からは外してきました。では何が理論家たちの関心の対象であるかというと、理念です。頭のなかにある考えです。生身の人間が生きる世界には不動のものはない。すべてのものは生じて潰えていく。しかし、ある種の理念は不変不動である。時間を超えて存在し続ける。それこそが理論の対象とすべきものである。これが哲学の伝統でした。

マルクスはこの伝統に反旗を翻した人です。彼はどんな抽象的な理論においても、その究極の根底は身体をもつ人間、生きようとする人間であると主張しました。

哲学なんか下手に勉強していない人には当たり前のように思える主張です。しかし、リベラリズムやリアリズムの理論を考えてみてください。それらの理論が分かりにくい一因は、身体をもつ生きた人間が捨象された世界だからです。あるのは「商品」、「需要と供給」、「力(権力)」、「均衡」、「国家」、「国益」などといった抽象的概念です。そんなところに、自分のような人間が日々やっていることがどのように関係してるのかよくわからない。

しかし、こうした概念も元は生きた人間によって考え出されたものですから、何らかの形で人間の生に関わっています。ただ、それが抽象される過程で生から切り離されて、概念操作によって頭のなかで切ったりはったりされるようになったわけです。そうやって身体的必要から解放された思想は自由に空をはばたくことができるわけですが、反面、日々の現実からかけ離れた観念論ともなっていく。

マルクスは、歴史の動因は経済にあって、政治や文化というのはその経済構造の反射にしか過ぎないとしました。しかし彼が「経済」というときに念頭にあるのは、リベラル経済学に書かれているような経済ではありません。ぼくらのような人が生き、また命をつなぐために身体的な必要を満たすあの平面のことです。人が労働し交わる領域です。

国際政治経済学にも同様のことが言えます。「国家と市場」「覇権国」などという概念も、実際に生きている人間を捨象してしまうと、単なる言葉遊びになる。どんな抽象的な理論にも窮極的には身体をもつ人間が生きる人類学的空間とでも呼べるものがその根底にある。それが「経済」なんですが、マルクス主義者にとっては「経済」という言葉には「市場」を通じた交換以上の意味があるわけです。

政治と階級対立

身体的必要を満たすにはさまざまな財を生産しなければなりません。生産というのは自然にあるものを加工して人間の役に立つものにすることです。人間はこれを労働によって行う。道具を使って行う。

しかしもう一つ重要な人間の生の特性があります。人間は分業し協働する。つまり生産にはそれ固有の人間関係がある。いろいろな生産様式がある。この生産様式が社会構造の基礎になっている。あらゆる歴史的変化は、道具の発展と生産様式(ある生産形態に伴う人間関係)の変化から生じる。これがマルクスの洞察です。つまり、時代時代に、その技術水準に見合った政治制度や社会制度がある。

それゆえに、一般にマルクス主義は経済還元主義であると言われます。すべての政治や社会の現象は経済によって説明できるし、またそうすべきであるという考えです。もしくは還元主義より弱い形で、経済を考慮せずにはいかなる政治や社会現象も説明できない、と主張されます。しかし、何れにしても、マルクスは人間が物欲に支配される動物であるとしたというのは誤解です。それは通俗的なマテリアリズムの語法に引っ張られた解釈で、正しくマルクスを理解すれば、彼は人間は社会的な動物であるというアリストテレス以来の伝統を引き継いでいます。ただ、その社会というものの基底に身体的必要を満たす経済があると見たわけです。

人間社会がある程度発達して原始共産制を脱却して以来、この生産様式には固有の階級制が伴います。生産様式が成熟するにつれて、どういうわけだかこの階級制は二極化していきます。古代の生産様式においては貴族と奴隷、封建的生産様式においては領主と農奴、資本主義においては資本家と労働者です。共産主義の生産様式では階級が消滅して原始共産制に回帰するような形になります。

マルクスは、歴史を動かす動因はこの各時代の生産様式に固有の階級対立と見ました。マルクス主義者にとって、「政治」とは国家に関することではなく、この階級対立のことです。「国家」とは単に階級対立の反映に過ぎません。より通俗的には、近代国家とは資本家階級が労働者階級を抑圧するための道具です。

そうなると、マルクス主義においても、政治と経済は互いに切りはなせません。マルクス主義は最初から政治経済学として生まれたわけです。しかし、リアリストと異なり、優位は政治ではなく経済の方にあります。政治的対立の根源は経済的対立であって、国家というのは市場という制度を利用して富を蓄積する経済的特殊利益を補佐するものにすぎないわけです。

マルクス主義の国際政治経済観

このような前提に立つマルクス主義の目には、国際政治経済というのも第一部でお話ししたようなものとはぜんぜん異なって映ります。「市場」対「国家」という図式において抽象されてしまったものは、身体をもつ人間たちです。それは対立する階級です。一方は生産手段を所有する資本家、他方には生産手段を有さず労働力を売ることを余儀なくされる労働者がいる。

たとえば、みなさんが卒業後に労働市場に参入して、労働力を売りに出さないとならないのも、生産手段をもっていないからですね。生産手段は今日ではたいがい企業の所有になっているから、企業に雇われないとなにも生産できない。学者でさえ、大学に所属しないと図書館にアクセスがなくなって、論文が書けなくなる。

つまり、一方の生産手段を独占する人々や組織があって、他方には生産手段を所有せずに労働力を売ることを強いられる人々がいる。前者は資本を増やすことによって自分の存在を支えている。そのためには労働者を搾取しないとならない。「搾取」とは労働者が生み出す価値以下の賃金を払うということです。労働者の側はこの搾取に抵抗する。賃上げ闘争とか労働条件の改善なんかを求める。しかし、最終的には、生き残るためには生産手段を自らの手にとり返さないとならない。それが共産主義革命です。私的所有権を否定して、生産手段を公有化するわけです。

資本主義社会の政治とは、この二つの階級の対立のことです。この二つの階級の対立が国際政治経済にも反映されているはずである。こうマルクス主義者は考えます。

マルクス・エンゲルスの理論はまだ一国内での資本主義の発展・崩壊過程の分析にとどまっていました。これを国際政治経済にまで広げたのはレーニンの功績であると言われています。資本主義が発展すると資本が蓄積する。そうすると生産力が高まる。しかし、この蓄積は労働者からの搾取によるものですから、労働階級はますます貧乏になっていく。そうなれば、一国における購買力は低下する。つまり、資本主義が成熟すると、生産力は高いのですが、いくら作ってもモノが売れないという状況が出現します。そうすると資本の収益が低下する。いくら投資しても儲からない(なんだか今の日本に似てますね)。

マルクス・エンゲルスの場合であると、これで資本主義が崩壊するはずだったんですが、予想に反して資本主義はマルクスより長生きしてしまった。そこで残されたマルクス主義者たちは理論の修正を迫られたわけです。ちょうど19世紀後半から帝国主義的拡張が再び活発になってきて、大国間での衝突が頻繁に起こるようになっていた。これが大戦につながるのですが、そのような状況を観察していたレーニンは、資本主義が崩壊しなかったこととこの帝国主義的競争を結びつけました。

有望な投資先を国内に失った投資家たちは、新たな儲け話を求めて海外植民地に触手を伸ばした。国家の暴力装置を使って非ヨーロッパ地域を従属させ、グローバル市場に組み込んでいった。それによって一時的に資本主義は余命を得た。しかし、最終的には限られた植民地を各国の資本家階級が国家間戦争という形で奪い合うことになる。そうして資本主義はその死滅を早める。これがレーニンの国際政治経済観です。

このレーニンの予言もまた外れてしまい、資本主義はいまだに余命(?)を保っています。植民地は独立を許されて、今では少数の例外を除いて主権国家となりました。しかし、先進国の資本による支配は独立後も続きました。しかし、そろそろその生命力に限界が見え始めたような兆しもあります。近年再びマルクス主義の資本主義論が脚光を浴び始めたのも、そのような背景があります。国際政治経済学における理論的アプローチとしてのマルクス主義もまた、一貫して有効な分析枠組として認められてきました。

マルクス主義の国際経済観をリベラリズムとリアリズムのそれと比較してみましょう。リベラルとは異なり、マルクス主義は市場を自生的・自律的なものとは見なしません。それは暴力を伴うもので、国家はその暴力の一形態に過ぎません。その意味ではリアリズムの政治経済観と似ています。しかし、リアリズムと異なり、マルクス主義は「国家」を主体とは認めません。国家はあくまでも道具、もしくは経済関係の反射です。真の主体は階級です。国家間の戦争の背後にも、安価な労働力や原料を求める資本家の欲望、またそうした資本家階級同士の抗争があるわけです。

国際政治経済とわたしたち

国際政治経済などという言葉を聞くと、わたしたちは何やら遠い世界の話、新聞やテレビを通じてしか接することのない世界ののような気がしますね。しかし、マルクス主義によれば、経済をめぐる大国間の攻防もまた、人間が生きようとする努力の結果生じるものです。資本家階級も労働者階級も、みな生きようとしている。生きて子を残そうとしている。その努力がまわりまわって帝国主義を生んだり、戦争を引き起こしたり、またグローバル化を促進したりするわけです。

この点もリベラリズムやリアリズムと比較するとよく理解できます。リベラリズムの人間観というのは、功利的な計算をする精神、肉体をもたない理性のようなものです。なんだか物も食わないし、死なないし、それゆえセックスもしなさそうな存在ですし、経済理論にとってはそのようなことはどちらでもいいことになってます。

リアリズムでは人間主体は偉大な政治家とか英雄に限られます。大局を見通して、普通の人にはできないようなことをする人間たちが国際政治経済を動かす。マルクス主義においては、階級の一員としての人間です。日々働き、家族をつくり、子を残して死んでいく存在としてのわれわれのことです。

そんな無名の大衆が歴史を動かす真の主体である。国際政治経済における主役である。これがマルクス主義が政治運動と結びつきやすい理論である理由の一つです。しかし、同時に、主体であることは責任を伴うということです。わたしたちが日々生きようとして努力している。その努力が意図せずしていろいろなことを引き起こす。他人を貧しくしたり、殺したりもする。そして、歴史を通じて、万人が因縁で繋がってしまう。

あまりいい画像でないんですが、次の写真を見てください。

グラフィックス1

Source: http://www.kampalacitytour.com/wp-content/uploads/2015/03/rich-vs-poor-hospitals-kampala.jpg

左側が先進国、右側が途上国を表象しています。日本で生まれ育った人が慣れ親しんでいるのは左の風景ですね。この二つの画像のあいだには一見なんのつながりもない。われわれが豊かであるのと、彼らが貧しいことには何らの関係もない。

しかし、マルクス主義は、このつながらないはずの二つの風景、「豊かさ」と「貧しさ」をつなぐ「と」を眼前につきつけます。われわれが豊かなのは、彼らが貧しいからである。そして、彼らが貧しいのは、われわれが豊かだからである。二つの現象に直接の因果関係があるかどうかに拘らず(つまり、具体的にわれわれが彼らを経済的に搾取しているかどうかに関係なく)、われわれの一人ひとりが歴史のドラマにおいて「持つ者」と「持たざる者」の役割を果たしている。ドラマの筋の流れでは、直接的な下手人でなくても、悪役の仲間はみんな有罪で憎まれますね。歴史のドラマでも同じことがおきるわけです。

人間の歴史のドラマの観客は神か宇宙人かなんですが、もう一つわれわれの子々孫々がいます。われわれが先代たちの判断や行為を批判的に評価するように、われわれの子孫たちもわれわれにたいしてこれをする。そうなると、よい評価を得たいのであれば、今のうちに後裔たちの視点から自分たちの行動を眺めておいた方がよい。つまり、現在から身を引き抜いて、まるで観客がドラマを見るように自分たちがやっていることを外から眺めようとすることですね。自分はどんな筋書きにおいてどんな役割を果たしているかを、他人の立場にたって見極めようとするわけです。

マルクス主義はそのような視点から自分たちを眺めることを目指した理論でもありました。幸か不幸か、共産主義社会という理想はもうあまりわれわれには魅力的なものではなくなっています。しかし、その方法論自体はいまだに無視できぬ魅力を秘めています。われわれ一人一人に絶え間ない自己反省を迫る作用があります。

リベラリズムやリアリズムにもこの作用があるんですが、非歴史的な理論であるために一度悟りを啓くと、そこに居坐ってしまう傾向がある。歴史主義と結びついたマルクス主義は歴史の変化とともに自らの立ち位置を見直すことを余儀なくされる。これはマルクス主義に限らないんですが、日本のような国でこの近代意識の形成にとって重要な役割を果たしたのがマルクス主義でした。マルクス主義などというとちょっと時代遅れのイデオロギーを連想する人も多いかと思いますが、共産圏の崩壊によってかえってその方法論的な側面が評価しやすくなったとも言えます。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。