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「命」より大事なものがあるかもしれないということ

現代社会では命というものが非常に大切(もっとも大切?)なものである。しばしば「人間の」という限定付きなのであるが、この信念と相容れない議論はポリチカルにインコレクトであるとしてあまり歓迎されない。「人ひとりの命は地球より重い」という言葉は論理的には破綻してる。だけど、詩的な表現としては正しく現代のエスプリを表わしている。人類の歴史上、これほど人ひとりの命が重かったことはかつてないと思う(少なくとも理屈上は)。

ところで、日本語でいうところの「命」は英語では life なのだけど、辞書を引くとこの単語には複数の意味がある。「生命」のほかに、「人生」「生活」もまたライフである。共通項は「命」ではなく「生」である。これは英語だけじゃなくて、ヨーロッパ言語では共通のように見える。

あの分析好きのヨーロッパ人が、この三つのライフを一つの言葉で言い表して不自由を感じてこなかったことは一考に値するが、今日の日本語ではこの三つが比較的明確に分離されている。

「生」と「よき生」

第一に、最狭義の「ライフ」とは「生命」の同義語であって、生物学的な意味が前面に出てくる。こうした意味での「命」の対義語はやはり生物学的な意味での「死」、つまり身体の再生産が全く止まってしまった状態である。つまり、ライフとは死んでない状態にすぎない。

これが「人生」になると、ただ「死んでない」だけではなく、もう少し別の要素が入ってくる。ただ生きるだけじゃなくて、できるならば「よき人生」を送りたいというのが多くの人の希望だから、檻の中のうさぎみたいに死なない程度に生きさせてもらうだけでは何かが足りない。人生の目的は「自由」でも「成功」でも「自己実現」でも何でもいいのだが、それは毎日飯を食って安眠しているだけでは達成できない何かである。

もちろん、「生命」があることが「人生」の前提なのだけど、意味ある「人生」を送るために「生命」が犠牲にされることさえある。この場合には、「生命」は「人生」の手段であって、目的ではない。

もう一つある。ぼくらが「命が大切」というときに、すでに個体の生命を指している。アリやハチなどにおいては個体ではなく集団を一つの有機的生命体と考えることもできるのであるが、ヒトや他の高等の動物においてはそれがむずかしい。なんとなれば、仲間がどれほど繁栄しようとも、自分が生きてそれに与らないのなら意味がない、と考えるエゴイストであるからだ。

これが、人生としてのライフが大事であるということになると、ライフの個人化がさらに進む。人生は一人一人が生きるものであるから、ここで問題になっているのは種などの集団ではなく生物学的個体のライフである。

これは「個(体)性」という考えとも深いつながりがある。人生というときに念頭にあるのは、こういう考えである。アリやハチとちがって、ヒトは個体(個人)が集まって何かもっと大きな有機的全体の一部を構成しているのではない。そうではなくて、一人一人が一つの完成体として直接全体というものに繋がっている。その全体がさまざまな形態で個人のライフとして表現されているから、一人の個性を犠牲にしてしまっても、ライフの全体性が損なわれる。こういう考えである。

余談であるが、今日では「個性」とか「多様性」重視というとリベラルの旗印のように思われているが、実は古典的リベラリズムはむしろ人間の斉一性を前提にしているから、そこから個性・多様性尊重の思想は出てこない。個性の尊重は、むしろ古典的リベラリズムを含む啓蒙思想への反動として現われたロマン主義思想の産物である。これをリベラリズムが摂取したのであるが、果たして消化し切れているかどうか怪しい。リベラルがしばしば多様性の取扱いに困る理由である。

社会的な生

さらに「生活」というと、もっと別の意味がある。「命」や「人生」が生まれてから死に至るまでの直線の時間で表されるのに対し、「生活」には繰り返しの時間の中で行われるというニュアンスが含まれる。「人生」が変化や挑戦であるならば、「生活」は秩序や安心を必要とすると言えるかもしれない。「命」を維持するためには「生活」する必要があるわけだし、「人生」というのは「生活」の積み重ねの中でしか全うできない。

「生活」は「命」や「人生」という目的のための手段である言えなくもないけど、「生活」そのものにも意義がある。「生活」は社会の中で営まれるもので、たくさん「生活」が折り重なっているのが社会なのである。

だから、「生活」は「人生」が一度個体化したライフを、再び他人の中に差し戻す。個人の能力は限られている。一人で何でもこなそうと思うには、人生はあまりに短すぎる。他人との協同において営まれるから人生もまた豊かになりうる。それに、個人的な生命維持や人生の目的の追求ではなく、むしろこうした社会生活に人生の楽しみや意義があるのかもしれない。

でも、社会というものがライフの前提だとすると、社会の存続を危うくするようなライフは遠慮してもらわないとという考慮も出てくる。時には、社会生活の安定のために「人生」、もしくは「命」まで犠牲にしなくてはならないような場合が生じるかもしれない(昔の間引きや姥捨て、現代の妊娠中絶、死刑、戦争など)。

ぼくらの選択は?

「ライフ」という言葉を「生命」「人生」「生活」に分解してしまうと、いずれのライフを大事にするべきかという悩ましい問いが生ずる。だから曖昧にしておいた方がよいのだとも言えるが、言葉上で統一を保っていたところで、現実がすぐにこれを追い越していく。特に昨今では、感染症の抑え込みという野望を人類が抱いたため、この三つのライフの両立しがたい場面が目立つようになっている。言葉上での繕いがほころびを見せてる。

いちばん簡単そうに見えるのは、「生命」を「人生」や「生活」に優先させることに見える。要するに、人の命を危険にさらすようなことは絶対にしないということであり、命が危険にさらされているときは自分の人生や生活を差しおいてでも駆けつけるということである。当たり前のことのように思えるが、現実にはこれを実践するには「人生」や「生活」が相当程度犠牲にされることになる。

実際に、「ライフが大事」というのを「命が大事」と訳してしまったときに、無視できぬニュアンスの違いが生じるように自分には思われる。日本語であると「生命」という意味ばかりが前面に出て、「人生」とか「生活」という意味が抜け落ちる。これが西洋語であると曖昧になっていて、いずれとも判断がつきがたい。だが、それ故に生命至上主義的な意味合いは薄れる。

では、「生命」ではなく「生活」を優先しよう。個より全体が重視されがちな我が国においては、そういうことになろうかとも思う。

だが、安定と秩序の中で集団として生きることが個体の生命維持や人生より常に優先されるということになると、「社会」というものが抑圧的な存在として個人の前に立ちはだかることになる。それに、安定や秩序だけを重んじる社会は、長期的には停滞し衰退していくものである。行きつくところはアリやハチのような社会である。それでは「人生」による個人化を経ていない全体の倫理への退行することにしかならない。

しかしまた、「人生」だけが突出してしまうと、「生命」の身体性や「生活」といった日常の繰り返しの時間、平凡だけど不可欠なライフの側面が軽視されてしまう。身体という制約から精神が完全に解放されて一人歩きしてしまうと、時にとてつもなく非人間的な結論に達してしまうというのが、二十世紀の一つの教訓だと思う。

結局、「命」「生活」「人生」という三つのライフのバランスを考えるべきというつまらん結論に到達するわけであるが、問題はどこにバランスがあるかという点であり、これは抽象論だけでは容易に答えが出そうにもない。

「(人の)命はかけがえのないもの」という善意に満ちた言葉の裏には、結構悩ましい問題が潜んでいたりする。「命」という言葉をやたらに物神化して崇拝するだけでは、総合的な意味での命/生活/人生が尊重されるようにならないばかりか、それが脅かされてしまったりもする。

単語の比較だけで印象論の域を出ないんであるが、日本には「命」の哲学があっても「生」の哲学が育ちにくい。だからライフの持つ歴史性や社会性を欠いた生命論に終始しやすい。この一面的な生命論が「人生」と「社会」のうちどちらか一方を犠牲にして不用意に結びつくと、全体主義的な政治につながる。そういう危険が常にあるんではないか。

そういうわけで、こんな議論はただの言葉遊びとして切り捨てられるだろうが、自分にとっては事態は逆である。「命」なり「生」なり、そのような言葉で指し示される何か大事なものがある。なぜ大事かというと、それが自己理解に深く関わるもので、それなしでは自らの存在が否定されかねないものだからである。それが言葉の上だけで弄ばれることになっている。そういう言葉遊びに対して、自分たちが生きているかぎりは、やはり言葉の上でその場だけを繕うだけじゃダメなところがあるんじゃないか。そういうことを言わんがため文章である。

(2010年6月23日に書いたものに多少加筆した)

追記:古代ギリシア語には、生を意味する言葉に zōē と bios の二つがある。前者が主に「生命」、後者が「生」「人生」を意味した。(2021年6月7日) 

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