見出し画像

地球の裏側にはちがう宴会があった

 子供たちの国語力が低下しているという話を聞いてふと思い出したのが、アメリカでよく聞く日本人批判だ。いわく、日本人は子供っぽい。そんなこと言ったって、僕たちにとっては英語で言いたいことを言うのは難しいし、第一あんたたちとは文化が違うんだから、と今までは思っていたのだが、ニュースを聞いて問題は単に言葉とか文化の違いではないのではと考えてしまった。

酔っぱらえない宴会

 昔の職場で最も嫌だった仕事の一つが、レセプションとかカクテルパーティへの出席だった。日本ではあまりなじみがないかもしれないが、ワイングラスを片手にいろいろな人と代わる代わる歓談していくというものだ。自分としては、せっかく酒を飲むなら気のおけない人たちと馬鹿話でもしていたいと思うのだが、こちらがホストだとお客さんを放っておくわけにもいかない。額に汗を浮かべながら必死に「歓談」するのだが、なんせ初対面の人や全くバックグラウンドの違う人たちと共通の話題を探さないといけないのでつらい。なんだか試験を受けているような気になって楽しむ余裕などほとんどない。

 ここで、ついつい言葉とか文化の違いを言い訳に使いたくなる。この言い訳は一面においては的を得ているが、他方では全く見当違いである。実は、別にアメリカ人も自分に流暢な英語や欧米文化に即した話題を期待しているわけではない。欧米式の理解では、レセプションというのは一種の公の場であって、個々人が自分の個性を披露する場なのである。

 個人には個性があるし、それはそれぞれの文化に根ざしているが、それを多様な人が集まる場で他人にわかりやすい形で披露することが期待されているのだ。そうした意味では、試験を受けているという印象は見当違いではない。面白い話で人を引きつけられなければ、人々は自分の周りから去っていく。人を引きつけるには型通りの会話ではなく「面白い」話をしないといけない。これはこの人にしかできないなという内容の話であればあるほどよい。

「貴方は誰?」という問い

 更に言うと、これは日米のアイデンティティの捉え方の違いに基づいている。欧米の文化では「貴方は誰?」という問いに対する答えは、こうした公の場で披露された言動によってはかられる度合いが大きい。「日本人です」とか「○○社の××です」とか外見や名刺だけでわかるような類いのアイデンティティでは十分な答えになっていないのだ。逆に言うと、所属がどこだろうが、一人前の大人であればいろいろなことに関して独自の意見や態度を持っているだろうということだ。

 更に、大人であれば、たとえ拙い言葉でもそれを表現することが期待される。これができない人はどこの国の人であれ「子供っぽい」のだ。日本人に話題をふっても、おどおどされたり意味のないにやにや笑いを返されたりするだけだという批判は、私のみならず多くの人にとって耳の痛いものであろう。

 こうした認識の違いは確かに日米の文化の違いに根ざしているが、他方で日本に公私の区別が存在しないわけではない。日本でも、家族や友人間、もしくは無礼講の酒の席などと、職場や他の公の場での言動には厳しい区別がある。コミュニケーションの公の性格が強くなればなるほど、それなりにルールに則った言動が要求される。すなわち、少なくとも対話の相手を尊重し、またその人のバックグランドに関わらず理解可能なことばで語りかけることが期待される。

 これを文化を共有しない外国人まで拡げれば、日本的な暗黙の了解を期待せずに、一個の個人として他の個人と対峙することが要求される。こいつら文化が違うからわからんのだ、というのは身内ネタで笑いを取ろうとする芸人の開き直りみたいなものだ。

身内ネタに頼らないコミュニケーション

 いわゆる日本の伝統文化では公の場での言葉遣いや立ち振る舞いが事細かに決められていて、「個」を発揮する場という認識は薄いような気がする。若者の国語力が低下しているとか礼儀を知らないとかいうのは、こうした伝統が形骸化しているという面が強い。それはそれで残念かもしれないが、問題は伝統や習慣という社会のつながりが弱まったときに、その代わりとなるつながりをどうやって造っていくかということであろう。

 これには社会が多様な個人の集まりであるという前提に立ち直って、言葉を通じて相互理解を養っていく以外にないと思う。国語力というのは、きちんと挨拶ができるとか漢字が正しく書けるということではなく、自分の気持ちや意見を他人に理解できるように伝え、またそれを理解できる力なのである。この点で、日本人間の会話でさえ身内ネタだけでは持たなくなっているのだと思う(だから国語力の低下)。更に、これから外国人人口も増加することが予想されるので、なおさら身内ネタでは笑いはとれない。きっと性別、世代、文化などを越えた対話というのは、私の嫌いなレセプションみたいなものなのだ。

(2007年12月16日)

追記:ヨーロッパ的なもの

 古い日記から。今ならこういう書き方はしないだろうが、当時はやっぱり日本人と欧米人(とその影響を受けたラテンアメリカ・カリブ圏の文化エリートたち)のちがいに大きな衝撃を受けた。それを個性や自我の強さに結び付けた。全く見当違いでもなかったが、ちょっと短絡的すぎて通俗的な東西比較論の域を出てない。

 こんな話を思い出したのは、阿部謹也が次のようなことを言っていたから。ヨーロッパの宴会では酔っぱらうことが許されない。たとえホーム・パーティで一晩飲み明かしたとしても、酔っぱらったところを見せたらアウト。パーティというのは「奥さん同伴で来て、その間は必死で耐えるんです。いろんなことを頑張って、頑張って耐えるのが社交です⋯⋯」(網野善彦・阿部謹也『対談 中世の再発見――市・贈与・宴会』)云々。

 やっぱりなという話だが、ヨーロッパでも宴会がそうなったのは十一世紀以降で、それ以前は無礼講のどんちゃん騒ぎだったらしい。十一世紀以降も民衆文化の中ではそういう宴会が残る。今日でも親しい仲間同士なら、飲んで歌って踊るのが宴会である。なぜそんな堅苦しい宴会が現われたかというと、やはりキリスト教と関係しているらしい。特殊なのは日本ではなくヨーロッパの方なんである。その特殊なヨーロッパ文化が「普遍」として全世界の文化エリートに広まって、民衆文化と摩擦を起こしているのが今日のいわゆる「グローバル社会」の正体である。

ここから先は

0字

¥ 100

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。