見出し画像

ハチなボクたち(義理を忘れたぼくらがまだ感じてる義理)

先日、うちの学部の先生が書いた論文の発表会があった。テーマは、米国における女性の銅像。

まだ植民が始まったばかりのころ、ネイティブ・アメリカン(いわゆる「インディアン」)に移住地が襲撃され、白人の女性が子どもと一緒に拉致される。しかし、女性は隙を見て見張りの「インディアン」たちを奪った斧で殺害し、自力で脱出した。
 
この勇敢さがたたえられて、後に彼女の銅像が立てられる。でも、18世紀くらいになると批判が出てくる。銅像を立てる意味のひとつは市民に模範を示すことであるが、斧を持った「野蛮」な女性の銅像が何の模範になるのだ、ということらしい。

彼女の評価が一転した背景には、社会的な変化がある。辺境に生きる社会では女性を家に押し込めておく余裕はない。男も女も同じように危険でキツい仕事に従事する。そのため、結構男女の役割分担が不明確で平等だったりする。

これが、ある程度社会が発展してくると、女性を家に押し込める動きが出てくる。そう言うわけで、「インディアン」とはいえ斧で人を殺害する女性などもってのほか、ということになったわけだ。

最近、この女の人の銅像の改修を機会に、この街でまた論争が起きているらしい。過去の論争に加えて、米国に女性の銅像はほとんど存在しないので、この銅像は保存すべきという意見が加わる。

うちの教授によると、賛成派、反対派どちらも女性の役割を特定のレンズで見ている。そもそも、男が「インディアン」を殺しても銅像なんかは立たない。女だから功績になったのだ。こんな野蛮な女性は市民に模範を示せないという人たちも、またしかりである。

同じ国であっても、社会的模範としての女性像はこのように時代に応じてコロコロと変わる。そういう話であるが、男と女の業績を同じ尺度で測るのは、どういうわけだかなかなかむつかしい事業なのである。

そこまでは他人事であったのだが、この発表の後、日本でいちばん有名な銅像は何かと聞かれて、返答に詰まった。仏様の像が一ぱいあるけど、模範的な市民を銅像を立てて讃えるという考えは外来のもので、日本の文化の一部ではなかったようだ。ぱっと思い浮かんだのは上野の西郷さんと渋谷のハチ公。

西郷さんというのは明治維新の立役者の一人であるが、後に政府に反乱を起こし逆賊になる。何故こんな西郷さんが銅像になったのか理由はわからないが、人望があった西郷さんの銅像を立てることにより、不満を抱く士族を懐柔したかったのかもしれない。西郷さんは右翼の英雄でもあるから、台頭してきた右派勢力を取り込むジェスチャーでもあったかもしれない。

ハチ公の方は、明らかに市民に模範を示す意味で立てられたような気がする。主人が亡くなったことを知らずに、その帰りをずっと駅前で待ち続ける忠犬。犬好きでなくても、ちょっと感動する。

でも、この話を聞いている米国人の友人が変な顔をしているのを見て、はっと気がついた。確かに模範と言えば模範だけど、市民の模範が犬っていうのはちょっとまずいんでないかい? 「君たちもハチをみならいたまえ」ってことだろ。

盲目的にまで主人に忠誠を尽くすのは犬だから健気だけど、これが人間だとちょっと問題があるような気がする。そう言えば、水戸黄門にいつもおべっか使ってるお調子野郎もハチっていったな。

(2008年3月19日付のものに多少書き足した)

追記:理想的な市民像というのが米国と日本ではこれほどちがうということに思いいたった一件であったのだが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』に渋谷のハチ公の話が取り上げられているのに先日気づいた。もう何十年も前から周知の事実であったものを自分は再発見したらしい。ベネディクト氏によると、盲目的に見える忠誠というのはもっと複雑な文化体系の一部であるらしいから、こんな一面的な批判では捉えきれないものらしい。

ハチ公の忠誠なんてものは若い世代には無縁の古臭いものだと自分も気軽に思っていたのだが、どうやらそうでもない。「義理」という言葉を使わなくなった今日の日本人の思考や行動のパターンも、まだまだかつて「義理」と呼ばれたようなものを前提として成り立っている。

例えば、電車で席を譲ったり譲られたりするのが苦手なのも、義理で説明できたりする。他人から親切にされると引け目を感じて「すみません」と謝ってしまうのがぼくら日本人である。そんな思いをさせたくないという気遣いがある。極端になると、道端に人が倒れていても見ないふりして通り過ぎることになるが、冷淡とか不親切なのとはちがう。自分の立場を自覚していることが大事であり、余計なことには首を突っ込まない。だから政治に無関心なところがあるのも関係していそうである。

何十年も前からこんなことが指摘されて、しかも広く読まれている。なのに、われらの思考や行動はやはり無反省に行なわれている部分が大きい。読んで理解するのと、反省して行動に反映させることとはまったく別のことであるらしいのである。ぼくらはもう義理なんてものがあるのかどうか知らないのであるが、それでも義理は感じられているのである。

日本を訪れたことのない外国人の一人類学者にこれだけのことを書かれたんであるから、日本人の「深み」は日本人にしかわからないなんて豪語していた日本の知識人(柳田国男や和辻哲郎など)は「してやられた」と思った。日本人も人類の一部だから、米国政府が人類学者に日本人研究を委託したのは当然のように思えるんだが、なぜ人類学者であれば日本人のことがよくわかるのか。フィールドワークさえしてれば人類学だと考えている今日の人類学者も人類学なんて何の役に立つんだよっていう人たちも、よくその理由を考えた方がよい。自分が「民族と民俗(アンソロポロジーとは)」シリーズで伝えたいのはそこなのであるが、書くたびに閲覧者が減るのでなかなか手がつかない。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。