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ギターの神様

9月18日はジミヘン様の命日であるらしい。書きかけの文章は多いが、どれももっと調べないとならんことが少しずつが残っていて、すぐにアップできるものが手元にない。それで、数年前に書いたジミヘンに関する文章を引っぱり出してみることにした。

こんな妙ちくりんな文章を書いたのには相応の理由がある。当時、自分は音楽体験を言語化できないかと考えてた。言葉にならないような体験をどこまで言葉で伝達できるか、という課題である。

たとえば、ショパンの葬送曲から、ルイ・アームストロングなどの「セント・ジェームズ・インファーマリー」まで、愛する者の死という体験を表現した音楽がある。その音楽表現が、今度はビリー・ホリデイの「サマータイム」からツェッペリンのSince I’ve loving you などにおいて、現代的な疎外感を表現するために転用された。そういう時代やジャンルを越えた歴史が書けるんじゃないかと思っていたんだが、結局うまくいかなかった。

もう一つは、哀愁を帯びた旋律に中近東音楽からラテン音楽への影響を見いだそうという比較音楽史のプロジェクトであったが、これも言語化の壁に阻まれて進んでいない。やはり音楽理論みたいなものをを学ばないとなかなか言葉にならないのだが、そんな言葉では理解してくれるひともそう多くはあるまい。そのうちに他のことが忙しくなって、老後の楽しみにとってある。

このジミヘン論もそういう試みの残骸の一つである。

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先日、ギターの老舗ギブソンの経営破綻の報道があった。どうやらロックというのはもう中高年のための音楽になってきていて、エレキ・ギターの売れ行きがよくないらしい。

だが、今日、たまたまジミヘンを聴きながら、ふと考えた。今日では白人の音楽であるロック音楽。その花形楽器であるギターの神様は黒人であるジミヘンことジミ・ヘンドリックス。

ジミヘンは白人ギター小僧の神様にはなったが、黒人にはロックを退ける者が多いらしい。インテリの黒人の友人曰く、自分も実はジミヘンが好きであるが、そんなものを聴くのは黒人らしからぬという偏見があって、黒人の友人には言いにくい。白人に魂を売った裏切者というのがどうも平均的な黒人のあいだのジミヘン観である。

ジミヘン自身も聴衆が白人ばかりなのを苦にして、晩年は黒っぽさを強調するような音楽を志向したが、不幸にして志半ばにして世を去った。それで白人のギター小僧にとっては伝説となったが、彼の同胞には評価されずに今日までいたる。

しかし、ジミのギターには黒人的なものがある。いかに白人のギタリストが彼のプレイを模倣し尽したとしても、依然としてそこからはみ出すものがある。それは彼の黒人としてのルーツを考えないと理解できないものだと思う。

ジミヘンの功績は、一言でいってしまえば、電気で増幅されたギターの可能性を最大限に引き出したことである。その意味では、近代技術の偉大なる応用者であり、特に黒人性を云々する必要はない。彼以外にもそうした試みを模索していた者もいるし、仮に彼がいなくても多かれ少なかれギターは似たような方向で発展したと思う。

しかし、彼が黒人であったことにより、ロック・ギターは黒人性を知らず知らずのうちに取り込むことになった。でも、ぼくがいう黒人性は、単にあるエスニック・グループに固有の文化という意味ではない。

ジミヘンの作り上げたパターンはいくつかある。その一つは同じ旋律が執拗に何度も何度も繰り返されること。いわゆるリフである。大地のリズムのように、それは少しずつ形を変えつつも際限なく連なっていき、アフリカン・ドラムや和太鼓の如く聴き手の興奮を煽っていく。重力に負けて落ちようとする腰をまた引き上げ、分別を思い出そうとする思考を停止させるあれだ。旋律楽器であるとともに打楽器の要素も含むギターの特性が最大限に活かされて、あのジミヘン独特のうねりのあるようなリズム感を生む。

しかし、電気的な増幅により解放されたギターの力は、リフの形式のなかで統御されつつも、その枠を容易に突破するだけの威力をちらつかせる。電化ギターのありあまる力は来るべき決壊を予徴し、聞き手はその瞬間を待ち望みながら興奮を高めていく。同じことの繰り返しとそこから解き放たれようとする力との駆け引きの生む緊張感こそが、ジミヘン以降のエレキ・ギターに対して持たれる一般的なイメージである。

そして、ギターはついに堤防を破って流れ出し、天空を駆け巡り、大地をのたうちまわり破壊の限りを尽くす。この間、ギタリストは文字通り神として君臨する。途方もない力の手綱を、あるいは矯め、あるいは緩め、自由自在に操る神である。聴き手はたまりにたまった期待を一気に吐き出し、恍惚として神の御業の前に立ちつくす。このパターンは、後のハードロックやヘビメタにしゃぶりつくされるくらいしゃぶられたものであり、ロックというとまずこれが思い浮かぶ人も多い。

が、原点としてのジミヘンを聴くかぎり、そこにゴスペル音楽やジェイムズ・ブラウンの執拗な繰り返しと煽り、そして憑かれたようなダンスといったものと同類のダイナミクスを見て取ることもできる。それを呪術的な宗教的儀式というさらに向うの起源につなげることも可能だろう。ロック・コンサートと宗教儀式とのつながりは、このジミヘンのギターにより一層強化された。

ハードロックに還元されえないジミヘンのもう一つ特徴は、電化がもたらしたギターの弾力性をも最大限に引き出したことだ。その電化された音は生音の楽器や人の声を容易に圧倒する力を得たんだが、同時に音に持続性を与え、また多彩な音色の紡ぎだすことにもなった。

かつてオーケストラでなければ出せなかったような音のアンサンブルを、エレキ・ギターは一本で出せる。時間を長く引き伸ばすような持続音を飛翔させることもできるし、その力を矯めて大地のリズムのごとく短く切り刻むこともできる。時々は雄弁にしゃべり、時々は口ごもり、時々はささやき、時々は叫ぶ。かと思うと、森の木をなぎ倒す風や、天空を引きさく雷鳴を操る神として猛威を振るう。はたまた無感情に行く手にあるものを押しつぶしていく不気味な機械の動きを模倣する。

このギターの可能性をジミヘンが追求しえたのも、恐らく彼が黒人であったことと無関係ではないと僕は思う。特定の文化のなかで音楽を継承した者であれば、ある楽器の役割についての先入見が出来てしまい、先輩たちの模倣からぬけ切れない。しかし、奴隷として連れてこられたアメリカの黒人は、文化に裏切られた民である。アフリカから持って来た文化も、アメリカで新しく得た文化も、黒人の悲惨な生に意味を与えることはできなかった。文化的根源に執着するんじゃなくて、その断片を繋ぎ合わせて、なんとかその場をしのぐために世界をつくり上げていかねばならなかった。

ジミヘンは文化に裏切られ捨てられた黒人の末裔だ。ギター一本だけでやれることをやり尽くす以外に、おそらく彼に選択肢はなかった。これは、今日ロックにとって代わったヒップポップの先駆者たちにも当てはまる。

ロック音楽は二度黒人音楽の刻印を押されている。一度は、ブルーズやリズム・アンド・ブルースに憧れた白人小僧共の模倣によって。そして二度目はジミヘンによるギターの変革を通じて。

ロックというのはいろいろな文化の邂逅によって生まれたんだね、という今更な歴史かもしれんが、このようにジミヘンを位置づければ、もう少し違ったロック史の解釈もできる。それは単に白人文化と黒人文化を継ぎ合わせたハイブリッドではない。それは黒人とか白人とかアメリカとかアフリカといった文化の枠を越えたところに出来上がったものだともいえる。

人が自らが慣れ親しんだ文化を根こそぎ奪われた時に、特定の文化的文脈を越えて普遍的な人間性に訴えるようなものが出現する。「遠いものを追い求める」だけじゃなくて、まずは生きるために「あるもので間に合わせる」という態度もまた、特定の文化の形式を普遍的なものに昇華するために必要とされるようだ。

音楽産業の資本主義的な発展に加えて、こんなものが世界の多くの人々をロック・ギターに夢中にさせた一つの理由じゃないかと思う。ジミヘンのプレイにおける断絶と継続の弁証法が複雑なように、理想と現実、革新と保守、進歩と伝統の弁証法も思ったより複雑なんである。

(2018年6月8日)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。