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政治とドラマ(三たびマルクス主義について)

国際政治経済学講座でのマルクス主義についての自分の説明がまずくて一度補足したのですが、それでも理解しにくいという反応が多くありました。特に、マルクス主義は自分自身を物語の登場人物のように見ることを促すという作用がむずかしかったようです。

実はこの点についてはかなり私自身の思想も入っていて、スタンダードなマルクス主義解釈ではありません。だから分からなくても支障はないと逃げてもいいのですが、マルクス主義の特徴を知るためには欠かせない点であると思って講義に入れた経緯があります。もう国際政治経済学とは直接関係なくなりますが、興味のある方のために、今いちど補足しておこうと思います。

「ポストモダン」の物語

では、マルクス主義はどんな物語を語ってくれるのでしょう。それを理解するために、まず手始めに、マルクス主義的ではないものを見てみましょう。

以前、娘から見せられた自主制作アニメで、別の講座で教材に使ったものがあります。数年前のものですから、もうこの分野では古臭いかもしれませんが、当時のアメリカ人学生にはそれなりに好評でしたので、ここでも試してみましょう。

砂漠を歩いてきた少年がある街に辿りつき喉の渇きを癒そうとする。しかし、その街の水はヘドロのようなものばかりで、とても飲めたものではない。街の住人たちはそのヘドロのような水を飲んでいるのか、もしくは水を飲む必要がないのか、いずれにせよもう影かゾンビのような存在で、生命のみずみずしさを失っている。

その街に、まだみずみずしさを保っているリンゴ売りの少女がいる。しかし、ゾンビたちに囲まれ暮らすその彼女の命・心も風前の灯のようである。しかし、この二人が邂逅する。絶望して少女が流した涙が池となり、少年はそれでのどの渇きを癒すことができた。

二人は狂気の世界で唯一正気の人間であることを認め合う。ここまではありがちなこてこての展開ですね。ロマンスが生まれるのを期待しますね。だけど、驚いたことに、二人はここで別れてしまうんです。「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ。おかげで命拾いした。じゃあ、縁があれば、またどこかで会おう」というわけでもないんでしょうが、なんだか中途半端な終わりなわけです。

自主制作アニメであるから短編である。一つの完結した物語にするには短すぎるのかもしれない。しかし、この短編を見せられたとき、自分はいかにも「ポストモダン」な時代の話だなという感慨を抱きました。

何となれば、謎が何一つ解決していません。少年は何者か。なぜ放浪しているのか。何が人々を魂を失ったゾンビにしたのか。なぜ少女はそんな街で正気を保っていられたのか。他にも少女のような人間がいるのか。少年と少女が出会ったことに何か意味はあるのか。こうした謎はそのままに話が終ってしまう。見た方は妙な宙づり感を味わわされることになりますね。

近代の物語

近代のストーリーテラーたちは、このような話の終わらせ方はしないと思います。われわれが親しんでいるマンガやアニメ、そしてハリウッドの映画のことです。それらのストーリーにおいては、こうした謎が少しずつ解けていって、最後には問題が残らず解消する。その問題解決の過程において、悪の根源が突き止められる。この根源の発見と除去に、少年と少女たちのような仲間のあいだの友情やロマンスが重要な役割を果たす。この期待を裏切る作品も作られていますが、それが可能なのはこの聴衆や読者の期待があるからですね。

ハリー・ポッターでも何でもよいんですが、コーエン兄弟の映画『マトリックス』がいちばんわかりやすそうなので、それを例にしてみましょう。現実だと思った世界が実は夢の世界である。主人公が目を覚まされてみた現実世界では、人間は自らが作った機械の電源(だったかな?)にすぎない。そういうお話でしたね。

直視するにはあまりに苛酷な現実に、主人公は悩む。このまま夢を見続けている方がいいんではないか。しかし、覚醒を通じて、彼は悪の根源が何であるかを悟る。なぜ人間がこのように生きなければならなくなったかを知る。そしてどのようにすれば人間を解放できるかについても知る。これを知った上で、知らぬ振りができるだろうか。また夢の世界で惰眠をむさぼることができるか。ここにも真理の把握を阻むのは知性の欠如ではなく、意志の弱さであるというアウグスティヌス以来の哲学がありますね。

この悩む主人公を救うのは、愛と友情である。夢では孤独であった主人公は、厳しい現実の世界で真の盟友を得る。ロマンスの相手を見いだす。これが悪との闘争における同志である。強敵との絶望的な闘いに文字通り命運を共にするわけで、この友情と愛ほど強い絆はちょっと想像しがたい。こうして主人公は現実を直視し、人類を解放する闘争に参加する決心を固める。

これが『マトリックス』の物語の構造です。上記の自主制作アニメと比較すると、ちがいは明らかだと思います。

マルクス主義とハリウッド映画

この『マトリックス』には哲学的要素がたくさん盛られてると言われてますね。プラトンの洞窟の寓話なんかが引き合いに出される。しかし、もう一つはどうもマルクスである。人間の労働の結晶であり道具である機械が、今度は人間を道具として使うようになる。これを最初に理論化したのがマルクスで、「死んだ労働である機械が生きた人間である労働者の生き血を吸う」というような言い方で表現しています。

しかし、もう一段深いレベル、おそらく作り手の意識の外にあるレベルで、マルクス主義との共通点があります。物語の構造のレベルです。

『マトリックス』と同様に、マルクス主義もまた自分がどのような物語でどのような役割を演じているか、つまり自分たちが何者であるかを教えてくれます。人類がその物質的必要を満たすために生み出す階級対立とその克服の物語ですね。その最後の段階が資本主義の矛盾であり革命の物語です。そこでは自分は生産手段をもつ資本家階級であるか、それとも無産階級の労働者であるかです。

この物語が、なぜ自分たちが今生きてるように生きているのか、なぜ自分たちの思うように生きられないのかを説明してくれます。敵がどこにいるのかを教えてくれます。それは資本主義(もしくは資本家階級なんですが、資本家自身も資本主義の虜であるのは労働者階級と同じです)という悪のせいです。マルクス主義はこの悪の正体を明かし、また悪を滅ぼすには何をしなければならないかも教えてくれます。悪は必然的に滅びるという希望さえ与えてくれます。

そして、マルクス主義は、市場で互いに相手を蹴落とす競争者であった労働者たちの間に愛と友情を育みます。労働者は国境を越えた義兄弟・義姉妹になります。共通の敵を見いだしたからです。この真実を知った労働者の間の連帯が、資本主義打倒において欠かせない役割を果たす。

つまり、マルクス主義には『マトリックス』の映画に似通った物語構造がある。実は、これも留保が必要で、マルクス自身の思想においては労働者の主体性について曖昧なところがあります。資本主義崩壊は歴史の法則であり、労働者が何をしようと関係ない。革命は起こすものではなく起きるのだ、という歴史決定主義の要素がある。

しかし、一般の人びとに受け容れられ通俗化されたマルクス主義は恐らく『マトリックス』の映画に近いものです。しかも、そうであるからマルクスを本で読んでも理解できないような人びとに受け容れられたようなところがあります。運命にもてあそばれるだけの存在としてしか思われなかった自分たちが、資本主義の興隆と解体という壮大な歴史のドラマの登場人物である。勇気を持って振る舞えば英雄にさえなれる。マンガや映画などに親しんだ人たちにはおなじみの憧憬ですね。そういう思いを一般の民衆にも与えることができたのがマルクス主義なんですね。

映画のように歴史を見る目

この類推をもう少し広げて見ましょう。われわれが聴衆として映画を見るとき、われわれは外から物語を見ている。スクリーンを隔ててその向こうで起きていることと、スクリーンのこちらがわで起きていることの間に敷居があるから、これが可能になる。自分たちは渦中にはいないから、距離をとって物語を見ることができるわけです。

だから、誰が善玉で誰が敵役であるかはっきりと識別できます。それができるので、われわれは通常は善玉の方に共感し、善があらゆる障害を乗り越えて悪を滅ぼす瞬間を待ち望む。これがわれわれの映画に対する態度ですね。

スクリーンのこちら側では、物事はそう単純ではありません。誰が善玉で誰が敵役であるのか、自分たちはどういう役回りであるのかがはっきりしません。だから、誰に共感すべきなのか、誰からの共感を期待すべきなのかもわかりません。われわれの多くは自分は聖人ではないにしても、まあ善人の端くれである、少なくとも世の中にはびこる悪に責任を有さない者である、どこかに悪い奴がいるはずだ、くらいに思って生きていますね。

マルクス主義というのは、われわれの生きるこちらの世界で起こることをスクリーンに投射するような機能があります。ですから、自分たちがスクリーンの向こう側で演じているのを、客として見せつけられる。自分たちが日々の生活で行なっていることの意味が、より大きな物語のなかで与えられる。そうやって自分たちが何者であるかを知ることができる。

これらのことを知ってはじめて、人はいかに生きるべきかを考えることができる。マルクス主義によって自分の人生の意義を教えられたように感じた人が多かったのもうなづける。どうも映画を見て自分もあのように生きれればいいなと思うのと同じような心理が働いています。

その際に、多くの人、特に先進国の中流家庭で生まれ育ったような人びとは、『マトリックス』の主人公のように、自分たちは惰眠をむさぼっていたことを思い知らされることになりますね。マルクス自身がそうですが、マルクス主義思想というもの自体がそうした中産階級の自省の産物でもあるわけです。だから、マルクスを読むのと『マトリックス』を見るのでは、似たような心理作用がありそうなんです。

大きな物語の喪失

そういう意味で、マルクス主義の歴史観というのは生え抜きの近代の物語とも言えそうです。その実質的内容、つまり資本主義が崩壊から共産社会が生まれるという部分の是非はともかく、近代社会の主流派に生まれついた人びと、自分たちこそが普遍的な人間であるという自負している人びとが、自らを非中心化・相対化することを迫る契機が含まれています。これがあるゆえに、今日では文化人も知識人もうかうかと自分は選良であるなどとは口にできなくなりました。

しかし、今日では、この大きな物語が信じられない人が増えました。マルクス主義の実質的な内容の方が現実味を失って、人びとに希望を与えなくなったんですね。

ですから、上記の自主制作アニメのような救いのない話の方が、われわれには現実味がある。われわれはどこか社会がおかしいと感じているのですが、それが何であるのかわからない。何が敵かも知らない。ただ自分の周囲の人間に苛立たされる。ときどきまだ生きた魂を持ったような人との心を交わす瞬間があるんですが、それが恒常的な愛や友情、そして協働にまで発展しない。

自分自身がゾンビでないかという確証さえも得られない。ひょっとすると、あの影やゾンビみたいに見える人々が、実はみな同じようなのどの渇きを感じているのかもしれない。ただ、お互いにはゾンビにしか見えないから、自分だけが苦しんでいると一人ひとりが思い込んでいるだけかもしれない。そういう疑いさえ解けない。

なぜかというと、自分が何者か指し示す物語を語ることができないからです。言い換えれば、物語を語れないということは自分自身を知ることができないということである。その知が欠けているかぎり、「今ここで自分は何をすべきか」という問いに対する答えが導きだせない。

となると、自分たちの物語を一人一人が紡がなければならないのですが、個々人にそんな力量を期待するのは無茶である。やろうとしても何だか独りよがりのへぼな物語ばかりが増える。やはり多くの人に受け容れられる物語の型みたいのがあって、その上にいろいろな個性が加味されるというのが現実的なんですが、その型の存在自体を否定してしまっているんですね。

これがポストモダン的と自分には感じられたのですが、このポストモダンというのは、マルクス主義的な歴史哲学が否定されて、大きな物語が失われてしまったということと関係しているように思えるんです。

宗教と科学

ですから、マルクス主義は政治経済についての科学的な説明以上のものを含みます。反省と行動を交互に促す作用がある。リベラリズムもリアリズムも世界観ですからそうなのですが、マルキシズムは民衆に久しく親しまれてきた大きな物語の型、宗教的な千年王国思想の伝統を受け継いでいるので、この物語性が持つ力が大きい。

というとマルクス主義も一種の宗教であるということになって、マルクス主義者にも宗教家にも気を悪くする人がいると思います。しかし、エンゲルス自身がドイツ農民戦争とその指導者であったトマス・ミュンツァーを社会主義運動の先駆として認めています。ただ彼らには歴史発展に関する科学的理解が欠けていた、マルクス主義はこの科学的理解をもたらしたというわけですから、今まで神学にすぎなかったものを科学にしたのがマルクス主義という理解なんですね。

実際に、個人の生を越える歴史のドラマの中に自分を登場人物として位置づけるというのは、元々はキリスト教的な発想です。キリスト以前の歴史というのはいわゆる「年代記」で、重要な事件をただ時系列に並べてあるだけです。そこには物語はない。楽園からの追放と堕落から救済という物語の中に自分の現在の生を位置づけるのは神学でした。マルクス主義は、これを人類が原始共産制から封建制、資本主義経済などを経て再び共産社会に回帰する物語に置き換えたともいえるわけです。

リベラリズムやリアリズムには、この歴史主義が欠けている。あるのは永遠の真理、不変の原理原則からなる抽象的な世界観ですから、始めも終りもない永遠の秩序です。物語はこの永遠の秩序を確認する小さなエピソードでしかありません。リベラリズムにもやはり進歩史観があるのですが、これはだいたい社会進化論という外にあるものを借りてきたもので、リベラル哲学に内在するものとは言いがたいものです。であるから、社会進化論が否定されてしまうと、経済学のように非常に静態的な理論しか残らない。

大きな物語の危険

国際政治経済学の講座ではイズムの科学理論としての側面に注目したのですが、イズムは世界観でありますから、「こうである」だけではなく「こうあるべき」という道徳規範も提供する。これがないと、われわれは行動に一貫性を保つことさえむずかしい。その時々で場当たり的な対応を重ねていくことを強いられる。政治が無関心と日和見主義に支配されることになりかねない。私はもうイデオロギーなんか要らないという主張に懐疑的なのですが、それはイデオロギーが宗教の代替物としても機能しているんじゃないかと考えているからです。

しかし、そうであるから負の側面もあります。宗教と同様に、教条主義的な信仰の対象になると、マルクス主義もまた宗教原理主義のようなものを生み出す危険がある。いつであったか「時間におけるシガリョーフ主義」のお話をしたことがあります。因みに、その名が取られたのドストエフスキーの『悪霊』に出てくるシガリョーフも自称社会主義者でした。

「時間におけるシガリョーフ主義」とは、現在というのはよりよき未来のための肥やしにすぎないとみる考えです。ですから、今生きている人の命は、子々孫々の幸福のために犠牲にしてもかまわない。むしろ、そうしないと幸福な未来が訪れないのであるから、人類の名の下の大々的に人権を侵害してもよろしい。そういうことになる。

こうした思想がレーニンや毛沢東などの革命家に見られる。もちろん、これはマルクス主義者にかぎらないわけですが、マルクス主義はこれが特に当て嵌まる。

だがマルクス主義だからそうなると言えないのは、例えば米国のコロンバイン校での銃乱射事件などを思い出してください。主犯の二人の高校生は長裾の黒いコートに身を固め、まるで『マトリックス』の主人公たちのような恰好で襲撃を行なったそうです。想像するに、独りよがりのへぼな物語に沿って行動してしまったのではないかと疑うわけです。

仮面ライダーやウルトラマンへのあこがれという幼稚なものと真実(=大きな物語)を知っているのは自分たちだけだという信念のミックスというのは、少しく物騒なものになりやすい。これも、いつか「悪の軍団の政治学」というシリーズでお話したと思います。

まとめ

ということで、要約してみましょう。一方では、世界観としてのマルクス主義というのは、人類の進歩の歴史という壮大なドラマの登場人物として自分自身をふり返ることを強いるものである。どんな端役であろうが、すべての人がそのドラマにおいて何らかの役割を果たしている。あなたも私もそうです。われわれが演じ切った後に、われわれの子孫がそれを聴衆として鑑賞することになるドラマです。

マルクス主義は、このドラマの筋書きを予め予測して、われわれが演ずることのできる役を指し示す。この「歴史の法廷」において、時代の遺物、反動勢力という役回りを割り当てられたくなかったら、自分の行動を反省してみないとならない。

それが個人の狭い視野を拡げ、常に行動と反省を往ったり来たりすることに結びつく。この繰り返しを再帰性と呼んだりします。理論と実践の動的な関係というのはリベラリズムやリアリズムには不足がちで、マルクス主義の一つの特徴になっています。他方で、それは宗教と同じく、大きな物語のために今ここにあるものを犠牲にしかねないものでもある。良くも悪くも、マルクス主義とはそのような力をもつイデオロギーであるということです。

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