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学者の学者による学者のための学問

誰も読まない論文

自分はアメリカで政治学を修めたのであるが、実はそのアメリカ政治学にあまり愛着を抱いていない。これは自分一人だけじゃない。いっしょに勉強した仲間の多くは、少なからず自分の選択に疑問を抱いていた。大学の先生にでもなって飯を食えるようになった者だけは、なんやかんやと飯の種の効用に後知恵の理屈をつけるが、それ以外はみんな惜しげもなく学んだ内容を忘れていく。そうしておいて何の支障もない。

学生だけではない。学外においても政治学に対する批判は高まっていて、政治学不要論みたいのが出て来ている。その発端は保守派のリベラル攻撃であった。大学教授にはリベラルな傾向の人が多いから、政治学もどちらかというと保守派の共和党に批判的であり、リベラル派の民主党の方に同情が集まり勝ちである。そこで保守系の政治家や活動家たちが政治学批判を展開したわけだ。それで、財団などにおいて政治学助成金打ち切り動議みたいのがやたらに頻発するようになった。

動機は不純なのだが、批判されるだけの弱みが政治学の方にもあった。現在の政治学者の書くものは市民にも政治家・官僚にもあまり読まれていない。それでは誰が読むのかというと、政治学者が読む。つまり自分たちに向けて書いているのである。

なぜ読まれないかというと、内容があまりに専門的になりすぎたために素人が読んでも何が書いてあるかわからない。自分も試しに比べたことがあるのだが、アメリカ政治学会の旗艦誌なんか開いても、ぱっと見は図表やグラフや数式などが並ぶ論文が大半で、生物化学か何かの学術雑誌と見分けがつかない。英語を知るだけではとても理解できない。

それだけなら、学問の自律性ということで、必ずしも悪いことじゃない。だが、どんなにすごいことが書いてあるかというと、読んでもすぐに忘れるような内容のものが多い。方法論が科学的厳密性を帯びるようになっているのと比例して、その内容はどんどんと些末なものが多くなっている。議会下院でのなんとか委員会におけるなんとか政治みたいな話が、恐ろしく複雑な方法によって分析されているのである。しかし、そんな話をいくら聞いても、政治が何たるかはぜんぜん見えてこない。

そんな研究に一生を費やす研究者の肩書だけが政治学者なのである。これは専門化が進んだ学問共通の問題であるが、政治学の場合は、学問の対象が多様な意見の綜合を目ざす政治であるだけに余計に矛盾が目立つ。どうしてこんなことになったのであるか。

政治学の方法

うちの大学の修士や博士課程も政治学原論が必修であり、そこで大局的な政治と政治学の関係について学ぶことになっている。だが、自分が学んでいた時に重視されるようになったのは政治学方法論の講座であった。強調は「政治学」ではなく「方法」の方にあって、何のことはない政治とは無関係の純粋な統計学である(実は、統計 statistics に 国家 state という言葉が含まれることに示されるように、統計学と政治は歴史的な関係があるのだが、その話は別の機会に譲る)。

今日、アメリカの政治学会で主流なのはこの統計の手法を使う研究である。データを集めて、それをSPSSなどの統計ソフトで処理して、その結果を解釈した論文が尊ばれている。これこそが科学的政治学というもので、それ以外は政治学(英語だとpolitical scienceであるから。文字通り訳せば政治科学)と呼ぶなという者さえいて、そういう連中が学会で威張っている。

うちの研究科でも原論なんかより方法論を学ばせようということになった。しかし、それはまた院生の就活のためでもあった。アメリカでも大学が経営難で、就職先より多くの博士を生産しており、学術系の労働市場は非常に厳しい。政治学を内容ではなく方法として学ぶことによって、この競争で有利に立てると考えられたのである。

自分らも、教授職に応募するには最低5本の論文を査読雑誌に載せてないと話にならないなんて脅された。しかし、修行中の院生がそう簡単に読む価値のある政治学論文を大量生産できるわけがない。これが統計学的方法論を身につけるのであれば難しくない。半年もやればSPSSを使えるようになる。

論文の書き方:タテマエとホンネ

一応、方法論の授業では、まず検証不可能な理論(たとえばマルクスの唯物史観みたいなもの)があって、そこから検証可能な仮説(たとえばイラン革命は原油価格の下落によって引き起こされたなど)を導き出す、と教えられる。そうして、必要なデータを集めて仮説を検証するのである。しかし、実際に論文を書くときには、その逆の手順であることが多い。

つまり、まずデータがある。なぜなら自前のデータを集めるにはカネと暇がかかりすぎる。研究費でも取らないかぎり院生ができるのは公開されている既存のデータを利用することである。それをあれこれといじくっているうちに、二つ変数のあいだに有意義な相関関係が見つかる。だが相関関係は因果関係ではない。そこで、その相関関係を説明する仮説を既存の理論などを参照しながら後知恵で考える。そうして論文が一丁上がりである。これなら院生のあいだに論文を5本用意するくらいできないことはない。自分も授業のレポートだけで二、三本書けて、先生たちから褒められた。

自分はこうした方法がまったく無意味であるとは考えない。変数が多くなると、人間の頭脳は二つ、三つ以上のサンプルを処理しきれない。統計的な手法を用いれば、われらの印象というのがいかに自分のよく知る個別の例によって歪められているか思い知らされる。そうした認識の歪みを悟るために統計はしばしば有効である。

「歴史」や「文化」という問題

当時の研究科長は、この方法論で論文をたくさん書いている人であった。そうして彼は実績を積んで、後にケンブリッジかオックスフォードに栄転していった。教え子にもこの恩恵にあずからせようというのが彼の配慮であった。自分なども可愛がられたのだが、彼の意図に反して、ぜんぜんちがう方向に研究を進めてしまった。そうして、やはり彼のようには成功しなかった。

自分がこの方法論を嫌ったのはいろいろな理由があるが、一つにはこういうエピソードがある。自分が院生のころ、その研究科長ら二人の教授の共同研究の発表があった。中南米と東欧の民主化の比較というテーマであった。民主化にはさまざまな条件や要因があるのだが、統計的手法を用いてそれを二つの地域で比較しようというのである。

たとえば、よく知られている民主化の要因・条件としては、経済発展の度合いがある。民主主義革命は経済発展が中程度の国に起りやすい。だが、自分の関心を惹いたのは、どこかの国が民主化するタイミングや民主主義の定着度のちがいを説明するのにもっとも有意義なのは、その地域名であるということだった。つまり、「ラテンアメリカ」の国であるとか「東欧」で国であるということが、ほとんどを説明してしまう。

この所属地域は「ダミー変数」と呼ばれるもので、本当の変数ではない。本当の変数であれば経済発展の指標のように数量化されている。そうではなく、「ラテンアメリカ」であれば1、「東欧」であれば0というように、イエス・ノーで分類しただけのものである。だから、このダミー変数の中身はブラックボックスである。ぼくらが「歴史」とか「文化」と呼ぶようなものが民主化のタイミングを決定するのに大きく作用しているのであるが、その「歴史」や「文化」の中で何が起きているのかはわからない。わからないから説明にならない。

ここで、それならこの「歴史」や「文化」のブラックボックスを開けてやろうというのが学者の本懐であろうと自分は思うのであり、まさにその道を選んだつもりである。そして、「歴史」や「文化」の概念の思想史的な研究に深入りしていった。それで、いろいろなことがわかってきて今日に至る。

だが、今の学界の状況ではそんなことをしても損をするだけなのである。むしろ、逆にこの説明不能な「歴史」「文化」を放っておいて、数値化できる他のこまごまとした変数の方に向かうのがプロの学者のやるべきことであるとされている。

ちょっとでもそこから外れたことを言おうとすると、あいつはどうも哲学的だ、理論家だ、という誉め言葉か何かわからんような称号を頂戴して冷や飯を食わされる。実証科学者とは見なされなくなる。そうして、そんなことは政治学者としての守備範囲外だと思っているような専門バカとか教科書コピー人間ばかりが大学を植民地化していく。

自分の同期などを見ても、しっかり考える奴ほど仕事につけずに、思慮の欠けた従順な人間ばかりが重宝がられている。ありていに言えば、今日の政治学を教える大学教官の多くは政治学者ではなく、教科書片手に既存の知を伝達する大学版中学・高校教師である。研究はむしろ体裁だけである。

輸入代理店への注文

これが、こまかいことを厳密に分析する論文が大量に書かれるが、肝心の部分には言うべきことがないという妙ちくりんな社会科学ができあがった一つの理由である。そうして、そんな大学の先生にでもならなければ役に立たんものを学生に無理強いしている。そんな政治学なら要らんと言われても仕方がない。政治学だけの問題じゃないはずだ。

誤解がないように言っておくが、自分は実証研究が無意味だと考えるのではない。そうではなくて数量化されたデータで言えることだけを言うだけでは、社会科学のほんの入り口にところにしか立てないと言いたいのである。ハイデガー風に言えば、それでは学者がデータを用立てているのではなく、データに学者が用立てられているだけだ。

日本ではまだこの手法が珍しいらしく、例の新しい物好きの連中がこの手法を売り込もうとしているようだ。それが無駄であるとは思わないが、これだけで分かることは非常に限られていて、しかも政治学者にならない者にとってはあまり有益なものではない、という注意書きも忘れずに輸入して欲しい。

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