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ナウシカのような人

うちの裏手には生ごみ用のバケツがある。生ごみ用といっても、特に仕掛けがあるわけじゃない。底のない円筒の容器で、分解したゴミがまた土になって大地に戻ってくだけ。

先日、そのバケツの蓋を開けたら、小さなミミズがうようよ出てきてびっくりした。かつては夏場にはアスファルトの上に干からびたミミズがたくさん転がっていたけど、街が発展するにつれてめったに見かけなくなった。なのに、このゴミの山には冬でもミミズが絶えないらしい。

彼らや細菌の働きによって、ぼくらの出す生ごみが土に帰っていく。別にぼくらのためにやってるんじゃない。彼ら自身の生を支えるためにやってる。だからあたりには腐臭が漂う。でも、そんなところに生命というのは繁茂してる。

くさくて瘴気のある場所にみにくいムシたちがうじゃうじゃ湧いてる。風の谷の王女ナウシカは、腐海とムシたちにも自分たち人間と同じ生命を感じた。見た目は醜くとも、人に害を与えるとしても、彼らは敵ではない。生を全うするために自分たちがやらなければならないことをしているだけで、われらと同じである。人間も腐海の植物もムシも、同じ生命の流れに属している。こんな風にナウシカは考えたにちがいない。

この生ごみ用のバケツを設置したのは母である。自分がまだほんの子どものころ、母が近所の小さな土地を借りて、イチゴ畑なんかを作ってたことがあって、幼い自分もよく手伝いに行った。母の家は農家ではないんだが、祖父の影響のせいか、母も土いじりが好きである。その母は雑草一つ引き抜くのもためらう。蚊を一匹つぶすのにも言い訳をいう。そういう人である。

限られた交際範囲のせいもあろうが、自分はいまだに母のように生命を慈しむ人を知らない。多くの人の夢を壊して申し訳ないが、自分の知るかぎり、彼女がいちばんナウシカに近い実在の人間である。少し前までは、このような人がもっとたくさんいたのではないかと思う。

母の家は神道であったから、殺生などという仏教的な思想によるものではない。田舎に住んでいるうちに、ただ自然に生を慈しむ心を育てられたらしい。母の語る思い出には自然に対する自然な愛が感じられる。ゲーテやヘルダーリンなどのドイツの詩人たちが憧れたような、自然と精神がまだ分離していないような融合がある。

その母が子どもの頃に書いた作文があるが、読み直すと自分でもびっくりしたことに、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』の猿真似であったということがあるらしい。ただ自分の身の回り見られないものは、自分の知っている事物に置き換えてあった。この自然の描写の形式は普遍であって、あとはそこに自分の知っている内容をはめ込めば、自分の知っている自然も表現することができる。そう感じたらしい。先生は知ってか知らずか何も言わなかった。

『千曲川のスケッチ』に描かれる事物とは異なるけれども、それに対応するようなものを類推によって自らの親しんだ自然から導き出してきたわけだから、これも一種の創造的模倣である。自分などは、自然の描写などというところはほとんど読み飛ばすばかりで、真似しようなんて思ったこともないし、また真似しようとしても内容が出てこない。どうも自然を見る眼がぜんぜんちがうらしい。

都市化の進展に従って、同じ国土に生きる者、生活を共にしてきた親子でさえも、これだけのちがう生き物になっている。母も人生の半分以上は都会で生きてきたわけだが、子どもの頃の体験というのは長いこと生きつづけるらしい。

人間も生命である。ある程度の衛生は必要であるが、他の生命体が生きられないような環境では生きていけないはずである。だが、人間の精神はまた幾何学的な秩序を美しいものとして好む。幾何学的な秩序は有機的な秩序とちがって、静態的なものである。それは生きたものではなく死に近い世界である。精神を貴ぶあまりに肉体を蔑むようなところがある。であるから、自分たちの住む場所を美化していけばいくほど、また生命が育ちにくい場所にもなってくる。

いつかも『蟲師』というアニメの話で紹介したが、生きとし生けるものはみんな同じ生命の泉から育まれている(以下リンク参照)。

こんな古い思想がまだ母などには見られる。子どものころには不思議とも思わなかったのであるが、今こうして世間を知った後にふり返ると、ひとつの謎である。果たして、伝承であるのか、それともぼくら都会人が抑圧してしまった人間本性から自然に生じる信仰なのか。

そんな観点から生命という現象を見れば、生命体と生命体が生存競争において互いに相手を阻害しせん滅しようとするのは例外であり、長い目で見れば生命は相互依存のなかで生きている。

たとえば、最近われわれが学んだことは、宿主の生命を損なって自滅してしまう自爆テロリストのごときウイルスと人間の関係も、出逢って間もない二種の生命体の行き違いらしい。どちらも自分の生命を支えようとしているだけなのだが、まだお互いを知らないので害を与えてしまう。

であるから、長い間共存していくあいだに、互いに適応していく。これを人間の側から見れば、ウイルスの毒性が弱まっていくということになる。

人を害するウイルスが次から次へと生まれてきているような気がするんだが、実は逆で、ひっそりとどこかでウイルスが生きていたところに、人間の方がずかずかと入り込んでいく。そうして世界中にバラまいてしまう。いきなり知らない世界に出会ったウイルスの方もびっくりして慌ててるかもしれない。

先日読んだ新聞によると、花粉症などもどうも人災くさい。森を切りひらき牧草地にしたり山林に杉を大量に植えたりしたのは人間なのである。まだ人間の体がその前代未聞の環境に適応しきれていない。自分のことをよく知らずに世界を作りかえてしまい、それによって苦しんでいるわけである。

仮に人類がうちの母みたいな人ばかりであったら、どうも文明の進歩などというのはおぼつかない。いまだに貧しくみすぼらしい農村社会みたいなところに住んでいることになりそうである。大都市とか山を切り崩した郊外の住宅地なんてものはありえなかったろう。

だけども、さんざん自然の秩序を乱したあげくに、人類はまたナウシカみたいな形象を創造する必要を感じたのであるから、ぼくらの思想なんてものも同じところをぐるぐる回っておるものなのかもしれない。

と言ったところで、ウイルスにせよ他の生物にせよ、ぼくらが生きるために必要な場を譲ってばかりもいられない。守らなければならないものは守らないとならない。ただ、お互いが生きようとしてぶつかるような場合には、知恵のある人間の方がどいてやればよい。そんな蟲師のギンコさんの言葉にナウシカも同意するんではないかな、と思ったりするんである。

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