求める気持ちがあらわれるまで待つ
前回の続きですが、吉田松陰の講孟余話を読んで気になったことを書きます。
論語の一文に「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」とあるようです。その意訳は以下のようです。
「自分で(考えて問題を解決しようとする)意欲がわかなければ(その者を)教え導くことはしない。(自分の考えを)言い悩んで(どう表現してよいか)悶々としていなければ(その者を)教え導くことはしない。
ここから考えることですが、学校教育があまりに丁寧すぎるということです。うちの学校でも、とにかく子どもたちに手取り足取り教えます。その結果、全く子どもたちで自分で考えなくなってしまった感じがします。勉強もちょっとわからない子がいると、すぐにそばにいき、その子が聞いてもいないのに、教え始めます。
この行為は本当に子どもたちのためになっているのかすごく疑問に思います。こういう教育を受けた子どもたちは、勉強は教えてもらうのが当たり前で、誰かが教えてくれるものと思ってしまい、待ってしまう子が育ってしまうと思います。
これからたくましく生きていく子どもを育てるためには、自分から学びに行き、自分で聞きにいく度胸と勇気を育てることが必要だと思うのですが、こういうことを教える教師がうちの学校では少なくなってしまってる気がします。
確かに、今は、保護者からいろいろな無茶な要望がたくさん来るので、それに対応するためには丁寧にするにこしたことがないのですが、本当に子どものためか?という原点に戻って指導をしていきたいです。
こういう意味でも、論語のこの一文のように、その人を見取り、求める気持ちが出てるのか待ち、タイミングを考えた上で、アドバイスや指導をしていきたいものです。
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