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生きづらさへの抵抗

「生きづらい」という言葉が好きではない。
この妙に違和感のある言葉はいつから人口に膾炙していったのだろう。

私は自分でも嫌になるくらい面倒な人間で、こんなこと気にしなければいいのにと思いながらも、いちいち足を止めたり考え込んだりしてしまう。
多分、周りから「生きづらそう」と思われているんだろう。

数年前まで名前の付かなかった曖昧な存在に名前が付き、分類されていく。
個性も性別も病も、マイノリティーだったものが露わになり、主張がはっきりとしていく。

ネガティブや人見知りを名刺代わりに使う人が増え、LGBTや精神疾患をSNSのプロフィール欄に書くのが当たり前になっていった。

決して悪いことだとは思わない。
一人で悩み、抱えていたことを誰かと共有することで安心する気持ちも分かる。
甘えやサボりだと思われていたことに病名がつき、理解を得られるようになったことで助かった人も多いと思う。

自分の思っていることを話しただけで、勝手に振り分けられレッテルを貼られる。
考えすぎ、マイナス思考、生きづらそう。
何度言われたことか。

そんなときはいつも適当に笑ってごまかし、否定も肯定もせずその場をやり過ごすのが常になっている。そしてその度にまた喋りすぎてしまったな、もう自分のこと話すのやめよう、と反省する。

人の思考や思想に対して安易に分類しないで欲しい。
生き方や死生観に名前を付けるのはやめて欲しい。
全てを十把一絡げにして決めつけるのはやめて欲しい。

「生きづらい」という言葉を盾にして道の真ん中を堂々と歩いている人が増えている気がして、この違和感をどうしても拭きれない。

自分の心を安全に保つために、色々なことから目を背けてきたら感情がどこかへ行ってしまった。
今度は「感情がない人」と言われるのだろうか。

別に生きづらいなんて思わない。生きる選択をしている限り、生きづらかろうが生きやすかろうがその道を歩いていかなければならないのだから。

自分の面倒臭さは自覚している。いちいち気にしてしまう癖も直らない。
ただ、共感を得たいとも仲間が欲しいとも思わない。

戦うことにも抵抗することにも疲れてしまった。
ここまで書いて、まあ本当は全部どうでもいいんだけど、と思ってしまっている。
面倒だな、ことごとく。


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