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悪い知らせの先を照らせるように- 概論

自分の命に残された時間を知りたいだろうか。
明日、予定通り遊びに行けるかを知りたいだろうか。
今まで会ってきた患者さんたちは、疾患や重症度に関わらず、ほぼ全員が明日・来週・来年以降の自分の行く末を知りたがっていたと思う。
体調が悪過ぎず、大事なひとが一緒に話を聞いてくれていたりすれば。

医師として、特に家庭医療外来や緩和ケア、ときどき救急外来で働いていると、最低でも1日に1回は「悪い知らせ」を患者さんや家族に伝えなければならない場面が来る。

それは、「その熱はインフルエンザです」みたいなのから「癌が進んでいて、次の桜を見られるか分かりません」まで様々だけど、悪い知らせというのは往々にして突然やってきて、そして知らせに引き続いて、患者さんや家族は何らかの意思決定を迫られる。

血糖値が上がっています。薬を増やしますか、おやつを減らしますか。
お腹の中に病気があります。明日入院して手術しますか。
体力が落ちています。抗がん剤を続けますか、それともやめますか。

どんな悪い知らせでも、一回は頭が真っ白になると思う。そこから先の情報が的確に入ってくるか、大事な意思決定ができるかは、我々伝える側の力量ももちろん大事だけど、患者さんの体調やおかれている状況にも大きく左右される。

以前、20代前半の女性が下がらない熱と止まらない咳で受診して、診察のち検査したら肺炎だった。診断も早々についたし、入院も必要ないくらいの、飲み薬でなんとかできる肺炎だったため、私は安堵していた。
ところが本人に「肺炎です、飲み薬で治療します」と伝えると、なんとぶわっと泣き出してしまった。
すぐに泣き止んだが、「やっと研修が終わって現場で働き始めたばかりなのに、まさかいま自分が肺炎になるなんて」と、ショックを受けてしまったのだと言う。

迂闊だった。目の前の人にとっての、肺炎という言葉の重症度について考えていなかった。

「悪い知らせ」の伝え方は多方面で研究されているが、文化背景や時代によって理想とされる形が異なる、流動的な分野だと思う。
例えば欧米で良しとされる「患者の肩に手を置きながら、目をじっくりと見て〜」みたいな触れ合いは、日本の患者さんにとって必ずしも良いコミュニケーションとはみなされないと思う。

昨今の日本だとSHAREと呼ばれるプロトコールが提唱されている
(http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02759_01
内容は比較的医療者向け、SHAREを提唱している人たちのインタビューが載っている)。

要するに、「きちんと場所と時間を選んで、相手が話を聞ける状態かを見て、相手のリアクションに注意しながら、適切な情報を伝えて、その後のフォローもしっかりとしましょう」みたいなことが具体的な手順をもって書かれている。

何を当たり前のことを、と思うかも知れないが、相手の理解度や感情の動きに注意しながら、言葉を選んで必要十分な内容を伝えるというのは、一つの技術だ。
意識して、本気で練習しないとなかなかできるようにならない。準備していかないと、伝える側も頭が真っ白になってしまうこともある。

せめて、悪い知らせを伝えられたことが、不必要に悪い思い出にならないように。
できれば、悪い知らせであったとしても、それを医療者と患者、家族がそれぞれに受け止めて、同じ方向を向いて次のステップを決められるような時間に、できたら良いと思う。

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