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眠りたいひと、眠らせたくないひとの痛みと強みを思う

ほぼ1年前、総合診療専攻医2年目として緩和ケアに従事し始めた私はいくつもの壁を感じていた。その頃ちょうど「がんを抱えて、自分らしく生きたい」を読み、思いのままに感想を書いて、それがたまたま著者である西先生ご本人に読んで頂けたという出来事があった。それをきっかけに記事は比較的多くの方の目に留まることとなった。
そして今年の夏に「だから、もう眠らせてほしい」が出版された。勝手に、西先生から今年も夏の読書感想文課題を与えられた気持ちになっている自分がいる。

西先生、覚えていらっしゃいますか。色んな意味で死を恐れた若手専攻医はあれから何十例もの終末期を経験し、今では外来・在宅でも緩和ケアの患者さんを担当しています。それでも毎日壁に当たっています。そして、この壁の中には、私自身が生老病死に対する私なりの向き合い方を見つけられていないことに起因しているものもある気がします。
だからこそ、私自身が死ぬまで医療に従事したとして、個人として、また社会の一員として、一生越えることのない壁も確かに存在するだろうと今は思うのです。
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「もう眠」自体は、「出版されたら一気読みしよう。絶対に出版されるし」とはじめから思っていたので、noteはほとんど見ていなかった。そして本が届いた翌日がちょうど僻地診療応援先に向かう日だったので、札幌から2時間程度の電車の中で文字通り一気読みした。

読んでいる間は、そして読み返している今も、要所要所で自分が関わっている/きた患者さんたちのことが頭に浮かぶ。また、社会的処方に関する部分や倫理に関する部分では、今通っているオンラインMPH(公衆衛生学修士)で学んだことや、研究の種になりそうな疑問が次々と浮かぶ。語りたいことは平均すると1見開きあたり2テーマはある。
しかし、あくまでそれらは医師/学者見習いである自分の一部から湧き上がるものなのだ。それも私の大事な一部ではあるけど。

私という個は、何を思ったか。
終始、ひとの痛みを思っていた気がする。
痛みって何だろう。

家庭医療学において、ひとの痛み(病体験)には「生物(身体)・心理・社会」という大きく分けて3つの要素があり、それぞれが互いに深く関係し合っていると考えられている。
そのため、体に全く問題がないひとでも、何らかの痛みを抱えることは十分あり得るし、それが体の痛みとして表出されることも少なくない。

外から見て大丈夫そうなひとも、何かを痛がっている可能性がある。更にいうと、自分は大丈夫、と思っているひとも、無意識に痛みを我慢していることは往々にしてよくある。知らないうちに我慢の限界がきて、ある日突然動けなくなる、なんてこともあり得る。
そして、不思議なことに、同じような痛みを抱えていたとしても、全く日常生活が送れなくなってしまうひともいれば、飄々と過ごしているひともいる。

そう考えたとき、痛みとは、理想としているバランスのとれた状態からの逸脱ではないだろうか。その理想が、自分自身で決めたものか、家族が、社会が決めたものかでも、痛みの性状や度合いは変わってくるのではないだろうか。

人類の歴史と共に社会のあり方が変わったことによって、新たに生じた痛みや、かつてはあったけど感じられなくなった痛みは絶対にあるだろう。
ある個人が、特定の地域で暮らすことで感じていた痛みが、引っ越すことで消失するということも珍しくない話だと思う。

本作で紹介される患者さんたちの、そして西先生の、及川看護師の、痛みに思いを馳せる。私自身の痛みは、そこに重なったり、重ならなかったりする。

では、耐えがたい痛みってなんだろう。

私は耐えがたい痛みを経験したことがあるだろうか。
齢30にして、私なりにあると思う。
そして、その痛みは繰り返すということを知っていて、そうなると日常生活が送れず、結果として耐えがたいので、今後経験しなくて済むように、例えば「薬を飲む」といった対策を講じることにしたのだ。

「痛み」に対して「強み」という考え方もあって、全てのひとに何らかの強みはある中で、それに気付いてうまく使えるひとと使えないひとがいて、それが痛みの及ぼす影響の程度に関係しているのかも知れない。

私には、自分で自分の体との向き合い方を決められるということ、自らの病状を理解し対応を判断できるような教育を受けたということ、家族が理解を示してくれるということ、薬を飲める健康状態であること、また薬を買うためにお金を払うことができることといった強みがある。たくさんある。我ながら恵まれたものだと思う。

もし、それらの強みが一部でも奪われてしまったとしたらどうだろう。
健康状態が変わり、薬が飲めなくなったとしても、他の対策を講じることができればそれで良いかもしれない。
お金が払えなくなってしまっても、理解ある家族がいてくれれば良いかもしれない。
家族が理解してくれなくなる、あるいは家族がいなくなってしまったら... 体の痛みどころではなくなって、かえって気にならなくなるかもしれない。新しい強みと出会える可能性もある。そう思えること自体も恵まれていると思う。

あくまでその痛みは「今の私の生活」を基準とすると耐えがたいのであって、もし私がその痛みを受け入れ、自分にとっての理想的なバランスを変えることを受け入れれば、耐えがたい状態から脱することができるかもしれない。
実際、そのようにしてあらゆる痛みを受け入れ、バランスを立て直したひとたちもたくさん見てきた。
でもそれってやっぱり「強み」ありきなのだ。

強みにも、「生物(身体)・心理・社会」的な分類を当てはめることもできる。痛みを抱えるひとの強みに焦点を当てたとき、例えば医師という立場からはできることが限られている。身体的な強みを伸ばしたり、本人が気づいていない心理・社会的強みを指摘し、その活用を促すに留まる。そこに限界を感じて、英国では社会的処方が推奨されているが、どういったものが「処方」できるかも地域の強みに依存するのが実情だと聞いている。

脱線してしまったけど、そう、ひとが痛みと向き合えるかって、強みありきだと思う。

本作で紹介された患者さんたちは、2人ともそれぞれに強みを持っていた。見方によっては、医師を
「困らせる」ようなことを言うひとたちだったかも知れないけれど、その意思は、痛みと共に生きる彼らを支える強みでもあった。それを強みとして尊重し、活かすことのできる医療者に出会えたことで、理想的とは言えないかも知れないけれど、比較的穏やかな経過を辿ることができたのではないかと思う。
例えば吉田ユカには「自らの経験を語り、そこから生じた思いや希望を言語化できる」という強みがあり、それが入院後に付与された、医療者側が提供できた強みと合わさることで、あの最後の数日間が可能となったのだと思う。

本作で取り上げられた安楽死について、この文脈で語るとすれば、「その気になったらいつでも死ねる/眠れる」という、自身の存在に対する決定権を、一種の強みとして持っておきたいという発想が自然に浮かぶひともいるだろう。
実際、安楽死できる薬を渡されたり、日本でも「今のあなたであれば、持続鎮静(最期まで眠って過ごす薬を使うこと)は医学的に妥当と判断されます」と言われたりしたひとが、「やっぱりもう少し起きていようかな」と決めることもある。その前日まで、本気で死にたい、今すぐにでも眠りたいと思っていたひとでもそうなることもある。

もちろん、だからといって全てのひとにとって「いつでも死ねる」が強みになるわけではない。同様に、お金も、愛も、健康な肉体も、強みになる場合もあれば、逆に痛みの原因となることもある。
痛みも強みも、外野が決めて良いことではないのだ。しかし我々は大なり小なり社会の構成員であるがために、痛みも強みも共有しているかのように思い込むことが往々にしてある。それは常に新たな痛みを産む。

私は育った環境のためか、同調圧力を需要できない。
そのため、患者が家族や友人からの「生の同調圧力」に従う様子を見て、医師になった当初は本当にショックを受けた。
日本が安楽死を法制化したときに「死の同調圧力」が生じるであろうという予想についても、受け入れがたいものながら、まあそうだろうなと思う。私の目の前でなくても、日本のどこかでは必ず起こるだろう。
まだ産まれてもいない痛みの兆しを思うだけでめまいがする。それに立ち向かうだけの強みを私は、私たちは持っているだろうか。

長くなってきたな...

結論はない!ないのだ。ないからよその施設で葛藤しながらもバリバリ働く業界の先輩の著書に繰り返し手を伸ばすのだ。冒頭でも書いたとおり、医師として、特に緩和ケアに従事する者、公衆衛生学を学ぶ者として鎮静や安楽死について思うことはこの何倍もあるのだけど、あくまで私が読みながら感じた一個人の素直な感想だけでこんな量になってしまった。

少なくとも私が関わるひとたちについては、それが患者さん・同業者であろうと、街ですれ違うひと、友人、家族、はたまた自分自身であろうと、みんな何かしらの痛みと、それに向き合う強みを持っているのだという、労りと尊敬の念を持って、今後も接していきたいと思った。

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