立石にRAAはなかったー『R・A・A協会沿革誌』を読む

 きっかけはこちらのツイートだった。

 「立石 RAA」でGoogle検索すると上位に出てくるのが下記の記事だ。

 この記事で事実誤認と思われるのは下記の箇所である。

立石の赤線はRAA、つまりアメリカの兵隊用の慰安施設となったのですが、とは言っても「バラックに毛が生えた程度」。

 三浦展『花街の引力 東京の三業地、赤線跡を歩く』(清談社Publico)でも立石の項目で同様の誤りがあるが、RAA(特殊慰安施設協会、Recreation and Amusement Association)は立石で慰安施設を営業したことはない。立石にはもともと売春業者がいて、RAAが慰安施設を運営していた同時期に、立石の売春業者も占領軍の兵士の需要を見込んで営業していたに過ぎない。
 もっともRAAに限らず、慰安施設は占領軍からの監視を受けていたので、白人兵士用、黒人兵士用に分けるようにといったGHQの指令、オフ・リミットの影響を受けたことは間違いないが、ともかくRAAの施設が立石にあったというのは事実ではない。そのため、RAAの施設がのちの赤線になったという説も誤りである。

 三浦展『花街の引力』は、大森海岸の項目でRAA協会の慰安施設一覧表を掲げているが、そこに立石の施設はない。にもかかわらず、立石の項ではRAAがあったと述べており、同書の中でも整合性がない。一方で、煽情的なな逸話を強調するような宣伝方法と書きぶりであるのは、歴史に対して真摯であるとは言い難い。
 『R・A・A協会沿革誌』が入手できないにしても、フジテレビの特別企画でも取り上げられたことのある、ドウス昌代『敗者の贈物―特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』(講談社文庫)を読めばこのような間違いはしないのであって、結局のところ真面目にこれらの題材に取り組もうと気がなかったと思われる。

 RAAは、1945年8月18日に警視庁保安課より東京料理飲食業組合に声がかかり(保安課に指示したのは警視総監だった坂信弥、さらに坂に頼んだのは近衛文麿だという)、当時の組合長である宮澤濱治郎、総務部長の渡邊政次が警視庁保安課に呼び出され、依頼を受けると、東京都下の各接客業者を銀座の幸楽に集め、同年8月23日を創立日として発足した。
 慰安施設という業態から、吉原等の売春業者が設立したかのように思われることもあるが、実際は東京料理飲食業組合の組合長である宮澤濱治郎が理事長であり、東京料飲組合をはじめ、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合、東京接待業組合連合会、東京慰安所連合会、東京練技場組合連盟といった、料飲業、三業、公娼私娼の売春業者、麻雀等の遊技場の代表者の集まりから始まったのであった。
 それから1946年3月27日にGHQの指令により慰安施設を全閉鎖するまでの短い期間、「全日本女性の純血を護るための礎石事業たる」ため、占領軍向けの慰安施設を経営した。
 都下の各団体が参加したこともあり、占領軍の兵士たちに娯楽を提供するため、慰安施設以外にキャバレー、ビヤホール、カフェー、料理店、旅館なども経営していた。占領軍兵士の家族もターゲットとした、より多様な娯楽施設を開業する案もあったらしいが、慰安施設が稼ぎ頭であったこともあり、構想のみで終わったそうである。
 慰安施設以外の営業は、慰安施設の全閉鎖後も続けられたが、同年3月31日にRAAは解散を決め、大規模な人員整理が行われた。閉鎖された慰安施設にはのちに旅館など転用されたものもある。そして1949年5月にRAAは日本観光企業株式会社へと営利会社組織化し、その幕を閉じたのだった。

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