見出し画像

文学フリマ書評『いばら道』(特集:早稲女×セックス)

「第21回文学フリマ東京」(2015年11月23日)で、雑誌『いばら道』(早稲女同盟)を手に入れた。

正直に言うと、「特集 早稲女×セックス」というテーマに魅かれた。「ノンフィクション」にジャンル分けされていたので、「早稲田大学の学生たちがセックスを語るのか。それなら読んでみたい」という、下心があった。というか、下心以外なかった。

だから、ブースにいた女性たちが現役の学生に見えなかった時点で、なんか、こう、ちょっと悔しかった。「あ、そうか。すでに卒業した人たちも『早稲女』なんだ」と、その時初めて知った。少しだけ下唇を噛んだ。すべては、己の思い込みのせいだった。

『いばら道』はこれが創刊号で、「早稲女×セックス」をテーマにしたコラムやエッセイが13本(マンガ1本を含む)が掲載されている。執筆者紹介の欄に「マスコミ関係」や「ライター」、「編集者」といった職業が並ぶだけあって、文章はどれも読みやすかった。見出しも「早稲女×ピンサロ嬢」から始まり、「早稲女×チャットセックス」「早稲女×童貞」など、引きの強いものが多い。全体的に質の高い同人誌であることは、間違いない

だが、引っかかるところもあった。

■「早稲女」はブランドか

それは、平塚らいてうの有名な文章を踏まえた一節から始まる序文の、以下の部分だ。

そしてそれは、高学歴といわれる早稲女も例外ではありません。早稲田学報では早稲女特集が組まれ、ステレオタイプの早稲女を主人公にした文学作品が現れ、ネット上では早稲女でない人が自分のイメージする早稲女を語ります。そこに私はいないのに、早稲女という言葉が私を規定します。

これを読んだ時点で、「“早稲女”って、そこまでブランド力があるものなのかなぁ」という疑問が頭をもたげた。ここでいう「ブランド力」は、単に「力」とか「強制力」といってもいいかも知れない。自分自身が、早稲田大学ほど優秀な学校を出ていないため、完全に「下から目線」で申しわけないが、そんなの気にしなければいいだけなのに……と思ってしまう。

もう1つは、その「早稲女」というブランドに対する疑問の答えを、『いばら道』が自ら出してしまったことだ。

それが、ネット上にも公開されている「早稲女×幻影(ワセジョという幻影)」だ。

■「早稲女×幻影」は掲載すべきではなかった!?

「早稲女×幻影」(嘉島唯)は、読者の共感を呼ぶ素晴らしい文章だと思うが、『いばら道』には掲載すべきではなかった。掲載するのであれば、せめて序文の次か、一番最後にすべきだった。

なにしろ「早稲女×幻影」では、早稲女(ワセジョ)が「幻影」だと言い切っているのだ。つまり、この本の存在意義というか、スタート地点を否定してしまっている。だから、本の中盤あたりに掲載されたこの文章を読むと、あとに続くコラムやエッセイがすべて「幻影」と化す。

この「早稲女×幻影」の直前には、「早稲女×ニコラス・ケイジ」(石狩ジュンコ)という、「これを書いた人、たぶんバカだな……」と褒め称えざるを得ない名文があって、ここまで来てようやく「なるほどこれが『早稲女』というものか」と理解し始めた(ように感じていた)ところを、突然ズドンと落とされる気分になった。

嘉島さんは「高田馬場では『面白いね』と言われた個性は、何の役にも立たない」と書くが、その「役にも立たない」ところに価値を見出そうとするのが、この本なのではなかったのか。

もちろん、さらに一段上から、そうやってすべてをひっくり返してしまうのもまた「早稲女」なのだという捉え方もあるだろう。だけど、俺はそこまで大人になれなかった。

唯一のマンガ作品である「早稲女×はじまり」の以下の流れ(特に一番下のコマ!)なんかは、「早稲女」の脆さみたいなものをうまく表現していて好きだ。

執筆者紹介の欄に「好きなタイプ」と「好きじゃないのに引っかかっちゃうタイプ」の設問が並んでいるのも微笑ましい。一本筋が通った人間であることがとても難しいことは、よくわかる。

しかしながら、「早稲女×幻影」があまりにも的確に早稲女を描いてしまったために、最後まで読んでも一緒になってはしゃぐことができず、「どうせ幻影なんでしょ」と冷めてしまう自分がいた。

すでに「早稲女」に酔い始めていたのだから、それが愚行だとしても、最後まで酔ったままでいたかった。


なお、この『いばら道』創刊号は、2015年12月30日に東京・高田馬場で手売りするとのこと。

※2015/12/15 : お気に入りのはずの「早稲女×ニコラス・ケイジ」の著者が間違っていると、落語家・柳家東三楼師より指摘があったので修正しました。もうしわけない!

この記事が参加している募集

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?