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達観からは何も生まれない、ということについて考えてみた。

世の中には色んな方がいらっしゃいます。

こんな方を見たことはありませんか?

達観し、まるで何かを悟ったかのような人を。

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何を言われても広い心で受け入れ、自分から議論を仕掛けたりしない。

ただ、"達観"は本当に良いことなのでしょうか。

私もかつて達観している人に憧れ、

「めっちゃ大人で素敵やん」

と思っていた時期もあるのですが、今はその考えが180度変わりました。

この記事では、達観することについて考えていきたいと思います。

1. 達観とはなにか

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達観について、例のごとくコトバンクパイセンに伺ってみました。

①広く大きな見通しをもっていること。遠い将来の情勢を見通すこと。
②目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟ること。俗事を超越し、さとりの境地で物事にのぞむこと。

目を細めて遠くを見据えていたり、何かを悟っているということでしょうか。

穏やかでいいことじゃないですか。

達観することには、下記のような例が挙げられます。

・自分に対する批判的な意見に対して、そういった考えもあるんだなと受け流す。

・政治家の主義・思想について中立の立場をとる。

・今自分に降り掛かっている問題を、特に気に留めない。

・ディスカッションの場面で、皆の意見に傾聴し主張はしない。

などが悟りを開いた人の"達観力"が発揮されるシーンとして挙げられるのかなあと思っています。

ただ、本当にそれでいいのでしょうか?

次項では、私の感じる達観の問題点について考えていきます。

2. 達観からは何も生まれない

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達観できる人は確かに素敵だと思います。

人の主張を批判せずに受け入れるのは、人間的に器が大きいです。

それでも、達観し続けた先に何があるのでしょうか。

何もありません。

なぜか?

"達観は何も生み出さないからです"

かつてフランスの思想家パスカルはこう言いました。

人間は考える葦である
~ ブレーズ・パスカル ~

葦とはイネ科の草のことです。

人間は脆弱な存在ですが、思考できる偉大な存在なんだよということを言っています。

達観は、ある種の思考停止ではないでしょうか。

生きていれば、自分の主張を提示しないといけない場面が必ずあります。

選挙では、自分の考えをもって誰かに投票しないといけません。

議論では、結論を出さないといけません。

リーダーであれば、方向性を示さなければいけません。

"どちらでも大丈夫だと思うよ"

は通用しないのかなあと。。

「じゃあどうすればいいんだ?」

という話になるかと思います。

次項では、

「達観が駄目なら何をすれば良いんだ」

ということについて考えていきます。

3. 達観ではなく、突貫

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脚韻が踏みたくて、突貫にしてしまいました。

ただ、私なりの考えもちゃんとあります。

それは

「ポジションを取ろう」

ということです。

民主主義なのか社会主義なのか、

自由民主党か立憲民主党か、はたまた公明党か、

ショートヘア派かロングヘア派か、

ギャル派かスポーティ派か、

塩顔派か濃い顔派か、

色々あるかと思いますが、自分の胸に手を当ててポジションを明確にしましょうよというお話です。

私は完全にショートヘア派で、その魅力について小一時間語り続けられる自信があります。

自分の主義には何が合っていて、自分は何を支持するのかを明確にすることはとても大切です。

もちろん、分からないときは素直に分からないと言えばいいと思います。

駄目なのは、

「どっちもいいと思うよ」

という態度です。

選挙や議論を例に挙げたように、生きていれば自分の結論を出さないといけない場面は絶対にきます。

自分自身についてきちんと理解し、ポジションを取れないと軸がブレブレの状態になってしまいます。

なので達観するのではなく突貫しようぜ。

自分の軸が決まっていれば、未知なる所にも突っ込んでいけるんじゃないかなあと信じています。










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