春は過ぐ(エレファントカシマシと歌について)
少しく古いが、春の歌でも聴いてみよう。
エレファントカシマシ『浮世の夢』
世を上げて 春の景色を語るとき
暗き自部屋の机上にて
暗くなるまで過ごし行き
ただ漫然と思いいく春もある
エレファントカシマシの3rdアルバム『浮世の夢』より、「『序曲』夢のちまた」の冒頭歌詞。
(歌詞カードは全編縦書き、また当時はスペースが入り「エレファント カシマシ」だった。)
タイトル通り、アルバムの最初の歌、巻頭歌とでも言おうか。この歌の中で、彼はずっと自部屋の机に向かっている。不忍池の水鳥や、明日出かけることに思いを馳せるが、この男は家にいる。夢か幻か、ふわりとした一日が通り過ぎていく。
その後「うつら うつら」、「上野の山」と、春の歌が続く。
「うつら うつら」でも、やはり彼は家にいる。
ベランダに飛んでくる雀のそのかわいさに
微笑むものだろうか 羨むものだろうか ああ
車にて眺めやるきらめく町の姿と
歩みにて通り過ぐ 殺伐の姿思う
彼は空想の中で飛び回る。飛んでくる雀を見て、実際に飛び回ることを羨むのだろう。外は温かいだろうに、炬燵にくるまり、ただ一日を過ごしている。世間から離れた男の呟きともとれる二曲。
「上野の山」で、ようやく彼は家を出る。わざわざ上野の山を訪れ、大さわぎの花見客に「花見なんぞのどこがいい」と冷やかす。しかし、終いには「俺も花見に入れてくれ」などと言う。夜も深け、現実の生活に引き戻され、「仕事のことが目に浮かぶ」のだ。浮世のことを忘れるには、多少の「さわぎ」が要るかもしれない。
春の歌
今年は流行病で、花見や何やと騒ぐ者も少なかった。私も、道に咲く桜を眺めたり、人気のない川沿いで安らぐだけだった。
『古今和歌集』の歌を一つ。
渚院にて桜を見て詠める 在原業平朝臣
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(『古今和歌集』巻第一 春歌上 五十三番歌)
この世に桜がなければ、春は穏やかに過ごせるだろうに。どちらにせよ、のどかでない春だったが、来年は花に心を取られる春であってほしい。
この歌は『伊勢物語』で見たことのある人も多いだろう。高校古典の教科書や参考書で、よく採られる段にある歌だ。この次に、「また人の歌」がある。
散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
(『伊勢物語』八十二 渚の院)
(和歌は、ともに小学館「新編日本古典文学全集」より)
桜は散るから美しい、世の中に変わらないものなど無いのだから。花も病も、そして人もいずれ移りゆくもの。今は静かに家で過ごすだけだ。
見果てぬ夢
『浮世の夢』の最後の歌、巻軸歌は「冬の夜」。このアルバム一篇を通して四季を廻る、というわけではないが、家でのんびり聴くには、いいアルバムだと思う。
是非、ご一聴を。
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