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『仮名序』を読んでみる、その一


たまには文学っぽいことでも書いてみよう。

ネタは『古今和歌集仮名序』。和文黎明期の傑作。


注意

原文はほとんど平仮名で、句読点がない。はっきり言って、これは非常に読みにくい。そのため、部分的に漢字に置き換えたり、句読点を入れるが、それは原文に解釈を与えることになる。これについて、よくある例を二つ出そう。

一つ目、「まわる」という動詞に漢字を与えるとき、どれだけの選択肢があるだろうか。「回」「廻」「周」「巡」あたりがメジャーだが、「迂」「転」「環」も、「まわる」と読めなくもない。しかし、それぞれで意味が異なる。どれを選ぶかによって、本文の意味が固定されてしまう。平仮名ばかりの原文に漢字を当てはめる難しさは、ここにある。

二つ目、『伊勢物語』第一段「初冠」は、「むかし男初冠して」から始まる。さて、読点はどこに打とうか。一つだけ、という条件であれば、次の二択だろう。

 「むかし、男初冠して」、「むかし男、初冠して」

この二つは、全く以て意味が異なる。前者は昔話、後者は「むかし男」という人物の話になる。現在の解釈では勿論前者だが、時代によっては、それなりの論争がなされていたぐらいだ。

本来は、原文に対してあれこれ言うべきだろう。しかし、あまりに長くなりそうなので、今回は「新編日本古典文学全集」の該当箇所を底本とした。さて、いってみよう。


一文目

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。

漢字を使わないとは、和語だけで文章を構成するということだ。わざわざ「やまとうた」と書くのも、「和歌(わか)」という言葉が漢語であるからだ。

さて、「種」やら「葉」やらと、植物に関わる言葉が出てきた。「万葉集」など、古来より、和歌は植物に紐付けられることが多かった。ここでは、種が芽吹き、成長して葉がつくように、人の思いが和歌となる、といった書きぶりだ。それも今に始まったことでなく、古来からそうであった、という感じ。


二文目

世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

主語は引き続き「やまとうた」。人は社会にいるかぎり、日々様々な出来事に遭遇し、その度毎に心は揺れる。思ったことを、見聞きするものに寄り添わせ、口に出すものが和歌なのだ。後にも出てくるが、歌のはじめは無為なもので、素直に詠んでいたようだ。


三文目

花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

二文目では人に着目していたが、実は人だけが歌を詠むのではない。鶯や蛙の声を聞けばわかるだろう。生きているもので歌を詠まないものがいるというのか。人と自然の近さが見える。

この近さについては、『日本文学史』(小西甚一著、1993、講談社)を読むといい。


四文目

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。

自然と口に出たものが歌だが、その力は計り知れない。天地の神を容易に動かし、精霊や荒くれの神の心を揺らし、男女の仲をなごやかにし、猛々しい武人を落ち着かせるのが歌である。

後半二つはわかるが、前半二つはホンマかいな…となる。まあ神も歌を詠むのだから、さもありなん。


終わりに

甚だ手抜きだが、書くこともないので書いてみた。やる気があれば続きを書こうと思う。


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