『快楽機械』

人間は完全に電脳化した。量子PCの技術開発が成功し、メモリ容量が爆発的に増大したことで、人間の脳機能が隅々まで分析・再現された。その結果、脳機能を膨大な演算として記述する理論体系が確立され、いくつかの技術的課題の克服を経て、いわゆる電脳化が、事実上可能となった。

その後しばらくは、希望する難病患者や高齢の人々のみが電脳化する道を選んだ。病気や老いの苦痛から解放され、喜びに満ちた彼らの表情や振舞いは、明らかに人間らしく自然なものであったため、この革新的な技術の誕生は驚きをもって世界に知らされた。次第に健康な人々の中からも電脳化に関心を持つ者が増えていった。

科学技術は進歩を続け、「電脳人」たちは生身の脳を超えた情報量を処理できるようになっていた。脳機能を拡張し、生身の人間が到達し得ない高い能力を持つことが可能となった。彼らはあらゆる言語を話し、どんな難解な数式にもすぐさま解を出した。どんなスポーツや芸術分野においても天才的な技巧を発揮した。

世界はこれに熱狂し「次世代の人類が到来した」と声高に叫んだ。先進的な思想を持つ富裕層を筆頭に、人間たちは生身の脳を捨て、「意識」を量子メモリ上に移していった。演算として命を記述することの不可能性の議論――魂の存在やクオリア、主観性といったある種の宗教学的、哲学的思索は、電脳化の華々しい成功による陶酔と、この技術が社会に与えた、次世代への革新に対する期待にかき消され、事実上後回しとなった。

電脳人が増えていくにつれ、彼らの暮らす世界は、次第に現実から仮想現実へとシフトしていった。仮想現実での彼らは、物理的制約を超え、自身の想像を瞬間的に・完全に再現出力できるようになっていたからである。望めばどんな高級料理でも、どんなに魅力的な愛人でも目の前に現れた。彼らはみな仮想世界に魅了され、そこで暮らした。仮想世界は、電脳人の楽園となっていった。

―――何もかもが思いのままであった。寿命などはとうに克服していた。どんな困難でも乗り越えて、世界を救うスーパーヒーロー。あらゆる魔法を使いこなす大魔導士。全く異質な物理法則が支配する、別の宇宙の創造主。彼らが、この楽園の住人であった。

―――仮想世界では「意味」が溢れた。跳ね上がった知能は、生身の脳では到底導きだしえなかった、大規模で複雑な意味の構造物を作り上げた。それらは人間の想像力に任せ爆発的に増大した。モノコトが生まれると、それはたちまちに他のモノコトと関係性を持った。現れた関係性は様々な解釈によって更新され続けた。

―――意味はもはや意味としての固有性を失っていた。仮想世界の日常は、関係性の、クロック単位での目まぐるしい変化となった。そして、人間は、「意味製造」の原動力としての機能を果たす、ただの衝動のようなものになった―――


―――とある朝
「西の大陸から、優秀な神父様がおみえになったらしい。」
「あら、すごい方なの?」
「ずっとプログラミ語を研究していて、サイエン様との対話を何度も成功させている方だそうだ。」
「今度の集会では、新しい御言葉を聞けるかしらね。」
「ああ、仕事場のやつらとも楽しみだって話してるんだ。…こら、ノゾミ。サイエン様にお祈りはしたのか?」
「まだー。」
「早くお祈りなさい。サイエン様は過去の人間たちを楽園に導いてくださったすごい神様だって、教えただろう。」
「もう、わかってるよ。いまするもん。」

ピーシーの中にいらっしゃるサイエン様の姿はいつもと変わらず、ずっと模様が変わり続ける抽象画みたいだ。なんだかとっても心地よさそうな感じだなあと、眺めてて思う。こうやって毎日お祈りしてれば、いつか、私たちもそっちに行けるのかな。

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