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可動域が広がったことで「元に戻らないという現実」を受け入れられた話

ここ数年、家族と私自身の体調の変化が重なり、心身のバランスが大きく崩れた。これまで通り、気合と根性で立て直そうとしたけれど、悪くなる一方。家族との関係もうまくいかなくなった。どうしたら良いかさっぱりわからなくなった。

チリツモ式に溜まった「わからなさ」はさらなる体の不調となって現れ、とうとう大学病院で検査をするまで悪化。今振り返るとかなりズタボロだった。

「元通りになることを諦めた方がよい」ということは頭では分かっていたけれど、諦めてどうするのか、その先に何があるのかが見えなかった。

「元に戻るのではないか」という期待と
「元に戻らないのではないか」という不安と
「新しい形を受け入れなければいけない」という理性と
「新しい形を受け入れたら負け」というプライドと

そのせめぎ合いが心身の不調を悪化させ、八方塞がりで苦しさがマシマシになっていたことは分かっていた。けれど、そのせめぎ合いを手放す糸口が全く見つからなかった。

病院からはとにかく心と身体に負担をかけないように、食事と運動と規則正しい生活を勧められた。この中で唯一できていなかったのが運動。身体を動かすのは嫌いではなかったけれど、体力も気力もなかった。

でも、身体は不調を極め、病院でもらった漢方とやらは全く合わず、何かしなければ、ズダボロ継続確定。

ということで、藁にもすがる思いで近所のジムに行き、とりあえず月に4回、岩盤ヨガスタジオ限定の一番安いメンバーシップに登録した。ジムのマシーンもプールも使えない、ヨガ限定メンバーシップ。

そもそも身体がかなり硬いし、ヨガとか「整う」とかいう流行り言葉にも全く興味がなかった。でも、その方が割安だったし、いつまで続くかわからないし、続いたらもう少しお金を払ってジムの全ての施設を24時間利用できるメンバーシップに変えればいい。そう思っていた。

ところが、苦手意識満載で始めたヨガとかピラティスとかストレッチは、かなり心地よく、ガチガチに固まった身体と心に沁みた。身体はまだ硬いままだし、「整った」感もない。けれども、次第に身体のどこが「詰まっているか」分かるようになったり、自分の身体の左右に違いも分かるようになった。

肩やら足周りやらの動きもスムーズになった。
身体の可動域が少しずつ広がっていく。そんな感覚だ。

身体の可動域が広がると、新しいことをもっと学びたいという意欲がムクムクと湧いた。もともと学ぶことが好きだったが、調子が悪くなってから仕事をこなすのが精一杯で、学ぶことができなくなっていた。

本や論文を読み、それをevernoteにまとめ、研修にも練り込んでいく。その営みが楽しく、面白く、久しぶりに心から前のめりになれた。お陰で夜更かしが増え、規則正しい生活は崩れたが、身体の可動域が広がったように、次第に思考の可動域が広がっていった。

昨年から一年かけて行っているチームわが家の問い直しもその一つだ。これまで出会ったことのない人たちに出会った。何気ない毎日の場面を眺めること一つをとっても、彼らには私が見えていないものが見えている。彼らの視点を借りながら日常を眺めたことで、チームわが家へのまなざしも変わった。

こうして新しい学びや出会いを通して得た新しい知識や視点は、私の心の可動域を広げた。これまでなかなか受け入れることができなかった亡くなった母との関係と思いがけない形で対話し、昇華することになった

子どもの頃に住んでいた北海道。もともと仕事で行く予定だったが、何かに突き動かされ昔住んでいた町で数日間過ごした。一週間の滞在期間を過去の自分との対話にできたことも思考と心の可動域が広がっていたせいだと思う。

ここ数年起きていた家族と自分の心と身体、関係性の変化。
ずっと「元通りになること」を期待し、目指していた。
以前の私たちの関係が愛おしく、大好きだった。だから手放したくなかった。

でも、心身共に可動域が広がったおかげで今は
「元に戻らないという現実」を「未来への希望」として受け入れられている。
諦めたのではなく、悟ったのでもなく、
ありのままの現実を、過去から繋がっている今として認識できている。

辞めるかと思っていたジムは今も継続中。でも、岩盤スタジオ限定のままだし、今後もアップグレードする気はない。

今思えば、この「限定」がよかったのだと思う。「限定」が私の身の丈に合っていた。「4回行かないともったいない」月4回限定はジムに行くためのちょうどいい言い訳だった。24時間いつでもアクセスできていたら、行かなかったように思う。

今の私たちには24時間いつでもアクセスできる情報が無尽蔵にある。
そして人生は長くなり、24時間アクセスできるありあまる選択肢を自分で選び、自分で過ごし方を決めていかねばならない。

元気な時はいいが、不調を抱えていると、正直、肩の荷がかなり重い。
「できないことへの言い訳」が何かちょっと欲しい。
おそらく、私の邪魔をしていたのは、「制約を言い訳にしない」というプライドだったのかもしれない。

長くて先の分からない時代を生きるためには、制約というちょっとの言い訳と、その言い訳を受け入れるための可動域という広がりが必要なのかもしれない。

さあ、今年最後のヨガに行こう。来年はもう少し身体が柔らかくなるかな?