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#1  トライアスロンコーチになるまでの話

はじめまして。チームシリウスジャパン代表の政岡(シリウス政岡)と申します。

トライアスロンコーチングを中心に、運動を人に伝える仕事をしております。

このたび note を始めることにしました。

スポーツコーチングを通じて考えたり、気づいたことを書き留めたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

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今回は自己紹介もかねて、私がアマ→プロ選手を経てコーチになるまでの話を書きたいと思います。

15年間のことをまとめているので長文です(所要時間10〜15分、wi-fiありの方が望ましい)

お時間の許す方、ご興味のある方だけ読んで下さい。

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<トライアスロンコーチになるまでの話>

1998〜2001年(19〜22歳) つくばでの日々

<私がトライアスロンを始めたきっかけ>

「どうして女性なのにトライアスロン(なんて苦しいスポーツ)をやろうと思ったの?」

ということをよく聞かれます。

「何かとりわけ大きなワケがあるんですよね?」

「トライアスロンって自分の限界に挑戦するあの種目ですよね?」

質問ぜめにあうこともしばしばです。

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<政岡の回答>

★パターン1(ちょっとその場を和ませたい時)

「大学時代に失恋しちゃって、その反動でローズネットクッキーというドーナツを毎日やけ食いしたんです。そしたら10k 以上太ってしまって。これはもうやばい。痩せなくちゃならない!と思いました。そしてそのとき、ふと頭に浮かんできたのが鉄人スポーツ・トライアスロンだったんです。泳いで→こいで→走ったら、さすがに痩せるだろうと思いまして・・・汗」

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★パターン2(インタビューや取材などで真面目を装う時)

「初めてトライアスロンのことを知ったのは小学6年生の夏でした。地元(長良川の近く)で開催されたトライアスロン大会がテレビ放映されていたんです。当時、校内マラソン1位、町内の水泳記録も持っていた私は「これこそが私のために存在しているスポーツだ!」と思い込んでしまいました。勢いそのまま、ママチャリに乗って堤防沿いを疾走したりして・・・周囲にうまく馴染めない子どもだったのを覚えています」

★パターン3(友人と気楽に話す時)

「トライアスロンをなぜ始めたかってよく聞かれるけど、飽き性だったからだと思うんだよね。3種目もあれば、飽きる暇もないと思って」


大学2年(19歳)で競技を始め、筑波大学トライアスロン同好会(当時)に合計4年(大学3年間+大学院1年間)お世話になりました。

トライアスロンというストイックな種目ながら、上下関係のない同好会でゆるく活動できたことは、貴重な経験となりました。


2002年(23歳) 大学院を退学

<婦人警官になるのか、ならないのか>

様々な動機?で始めたトライアスロンでしたが、ビギナーズラックもあって世界大学選手権(ユニバーシアード)の日本代表に選ばれました。

どんな大会でも「日本代表」とつくとハクがつきます。

「こっからプロになってオリンピックに行けるんじゃね?」

と調子をこいて、大学に行かなくなってしまったのがダメでした。

授業やゼミをブッチしてたら、担当教官のカミナリが落ちました。

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「実績も何もない人間が何がオリンピックだ!馬鹿げたことを言うんじゃない。トライアスロンなんかやって婦人警官にでもなるつもりか。目を覚ませ!」

ふ、ふ、ふじん・けいかん?

「前代未聞だ。筑波大学の名を汚すのか。キャリアに傷がついてもいいのか。一生後悔することになってしまうぞ!」

修論書いて→大学院修了して→地元に戻って→体育教師になって→誰かと結婚して→子ども産んで→筑波大学の名を汚さないような、立派な人間になれ!

と先生は言いたかったのかもしれません。

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私は一人研究室の机に突っ伏し考えました。(こんな感じ↓)

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「どうしよう。トライアスロンではメシは食えん。でも、体育教師にはなりたくない。先生なんて●●喰らえ!(暴言すみません)」

教育実習中に「あなたは学校の先生にはむいてない。お金持ちの旦那を早く見つけて好きに暮らした方がいい」と担当者から助言されていたのも影響しました。

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ウジウジ悩んで数日経過した頃でした。

大学の後輩が突然、事故で亡くなりました。

昨日まで目の前にいた人間が突然消えてこの世からいなくなってしまう、人生初の経験をしました。

事故現場に毎日赴き、供えられた花がだんだん枯れてゆくのを眺めました。

最初は泣いて悲しんでいた人々も、やがて彼のことを忘れてゆくのだと知りました。

そしてあのスティーブ・ジョブズと同じことを思いました。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」

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両親に電話して「大学院を退学してプロを目指す」と伝えました。

お母さんは悲しみ、お父さんは「悔いのない人生を」と言いました。


<17年後の和解>

さて、先ほどの婦人警官事件の教官ですが、17年後に和解しました。

今でも私が運動指導に携わっていることを知り、手紙を送ってくださったのです。

↓3枚にもわたる直筆の手紙

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「お台場のトライアスロンのテレビ中継で美里の姿が放映されていたのを今でもよく覚えています。指導教官として十分に世話をすることができず反省しています。

その後も目標を失うことなく、信念を持って継続してきていることに敬意を持って評価させてもらいます。

力になれることがあれば喜んで応援させてもらいたいと思っています。更なる美里の発展を期待します。また機会があったら様子を知らせてください」

涙が出ました。

「先生なんて●●喰らえ!」と思った己の器小ささ、視野の狭さを反省しました。


2003〜2007年(24〜28歳) 湘南での日々

<湘南ベルマーレに所属>

大学院を退学後、神奈川県平塚市にある湘南ベルマーレトライアスロンチームに加入させてもらいました。

W杯の日本代表として世界各地を転戦し「日本がとても小さな島国であること」と「日本人とは何か」を知りました。

活動資金は不足気味で、家庭教師(が終わった後の賄いメシ)とコンビニのレジバイトで凌ぎました(廃棄の肉まんたくさん食べた)

レース中は歯をくいしばるクセがあった(先頭)↓

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<スポンサー資金を獲得>

日本の大会だとそこそこ行けるのに、世界で全く通用しないと気づき始めたのは2007年の終わり頃でした。

なぜだろう→なぜ外国人は強いのだろう→彼らを指導しているコーチはどんな人なんだろう→海外に武者修行に行ったらわかるんじゃないか→

金がない→行きたい→金がない→行きたい→金がない→バイトじゃ足りない→あしながおじさん、いないのか→そんなこと考える暇があるなら練習しろ!

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・・・と、そんなことを3年くらい考えてたら、あしながおじさん、現れました。

某大手企業(の会長さん)がスポンサーをしてくれる、と言うのです。

「お前、おもしろい。度胸もあるな。あとでここ(名刺の連絡先)に電話してこい」

とある会食の席(銀座)でそう言われました。

競技の成績はまだまだでしたが、キャラがおもしろいという理由で、活動資金を援助して頂けることになりました。

キャラが立ってて(出る杭打たれて)損したこともあったけれど、たまにはいい事もある。

キャラというのを大切にしよう、と思いました。


2008年(29歳) オーストラリアでの日々

朝日が昇る前のプールサイドにて。髪の毛は塩素により金髪バサバサ↓

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<立ちはだかる壁>

スポンサー資金を全部使って、単身オーストラリアへ飛び立ちました。

海外武者修行の始まりです。

英語にはまあまあ自信があったので(学校の英語の成績だけは良かった)なんとかなる、と思っていました。

しかし現実はとても厳しいものでした。

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「グダイマイト(Good day mate)」

「トウダイ(today)」

「アイアイ(ai-ai)」

なんじゃこりゃ〜〜〜(涙)

オーストラリア(イギリス英語)訛りの発音・アクセントが全く聞き取れませんでした。

誰とも話せない。コーチの指示を理解できない。仲間たちと会話できない。

ストレスは溜まる一方でした。

終いには、チームメイトが隣でひそひそ話していると、

「もしかしたら私の悪口を言っているのではないか」

と被害妄想も出てくるほどになりました。

強い孤独を感じました。

言葉の壁にぶつかりました。


<心の友・今泉慎太郎>

そんなこんなで孤独の壁に阻まれながら1人発狂しそうな夜は、「古畑任三郎DVD全巻」と「ごっつええ感じDVD全巻」を何度も観ながら自分のことを慰めました。

↓古畑任三郎におでこをペンペン叩かれる今泉慎太郎(by西村雅彦さん)

今泉

↓突然怒り狂って卵やお肉を壁に切り投げつけるキャシー塚本(by松本人志さん)

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彼ら(彼女ら?)を見るたび心が救われ、ぐっすり眠ることができました。

私の祖母の遺言は「いつも心にユーモアを」ですが、それは本当でした。

辛い時こそクスッと笑えるユーモア(キャラクター)が大切なのだ、と学びました。


<徐々に強くなっていった>

オーストラリア生活も半年が過ぎ、言葉の壁はまだありましたが、トレーニングには徐々に慣れていきました。

「結果は後からついてくる」

スポーツ界では言い古された格言ですが、その通りになりました。

海外レースで2週連続優勝したり、賞金を獲得できるようになりました。

目の前のモヤが少しずつ晴れるような、前向きな気持ちになりました。

私にとっての武者修行は孤独で辛くて、思い出したくないことばかりですが、オーストラリアでの経験があったからこそ、タフな精神力を得ることができたと思います。

逆境も(たまには)悪くありません。

左から3番目。とても低く構える女↓

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2009〜2010年(30〜31歳) アメリカでの日々

毎朝通ったロサンゼルスの50m屋外プールにて(左 :コーチSiri、 右:政岡)↓

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<憧れの人に会いに行く>

長年憧れていた元世界チャンピオン(コーチとしても世界一を多数輩出)Siri Lindley氏 の指導を受けるため、拙い英語でメールを出したのは、武者修行も1年が経過した頃でした。

「あなたの元で強くなりたい」「世界チャンピオンが集まるチームシリウスに入りたい」「あなたのような本当の強さを持っている選手になりたい」

「まだ実績はないけどどんなトレーニングにも耐えます」「絶対に弱音は吐きません」「日本には戻りたくない(帰る場所はもうない)のです」

と次から次へとメールしました。

今思うと狂気の沙汰です。必死でした。

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2〜3日後に返事が来ました。

「I love Japan. I've been to Ishigaki Island  for a race. Come to California.(日本は大好き!レースで何度か、石垣島に行ったことはあるんだよ。ぜひカリフォルニアにおいでよ)」

チーム加入が決定しました。

なんでも Siri が過去に出場した石垣島のワールドカップで、現地島民の方に優しくされたことがあったようです。

その時の恩返しをしたい。

それが日本人である私をチームに入れてくれた1番の理由でした。

石垣島のどの島民の方かはわからないけど、本当にありがとうございます。

あなたのおかげで今があります。

運に恵まれ、トライアスロンの旅を続けることができました。


<記憶のない日々>

アメリカでのトレーニングはいつか紹介したいのですが、ハードすぎて記憶が曖昧です。

毎朝6時から6000mを泳ぎ、朝食を食べ、80〜120kmの自転車練習に出かけ、おやつを食べ、5〜15kmのランニングに出かけました。

終わるのは夕方頃で、夕食をかけ込み、夜7時半には就寝でした。

「No excuse(言い訳無用)」と常にコーチに言われました。

プロであり続けること、の厳しさを嫌という程味わいました。

朝から400mトラックを25周全力で走る(左前)↓

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2時間かけて山を駆けのぼる(世界チャンピオンであるミリンダ選手のトレーニングパートナーに抜擢された)↓

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砂漠の真ん中に作られた冷水のプールで泳ぐ(おしっこ漏らした 秘)↓

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2011年(32歳) メキシコでの挫折

<天国と地獄>

順調にトレーニングを積み、メキシコで開催されたレースで優勝しました。

このレースには元オリンピアンや世界ランキング上位の選手も出場しており、そういう舞台で最高のパフォーマンスを発揮できたことは大きな自信に繋がりました。

「オリンピックが夢ではなく近い現実になるかもしれない」

アメリカで待つコーチもチームメイトも、日本で見守ってくれる両親も、メキシコ大会での優勝を我がことのように喜んでくれました。

メキシコの空を見上げた↓

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<そうは問屋がおろさない>

けれども、メキシコからアメリカに戻り、みんなのいるキャンプ地(ボレゴ砂漠)に到着するやいなや、調子を大きく崩しました。

吐き気と寒気が止まりません。

ご飯も喉を通らず、みるみるうちに痩せました。

けれども次に控えるレースのことで頭がいっぱいで、無理を重ねてしまいました。

この判断は人生(41年間)で最大の過ちだった、と心から後悔しています。

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<人生2度目のA型肝炎>

当時の写真(証明写真)がこちらです↓


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死体に近い表情です。

首は牛スジ、目はくぼみ、はっきりと黄疸が出ています。

病院で検査を受けに行きました。

ドクターが呆れた顔でこう言いました。

「あんた、これ、治りかけのA型肝炎だよ」

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中学2年の時、A型肝炎になったことがありました。

まさか、同じタイプの肝炎にもう一度感染するだなんて・・・信じられませんでした(今でも)

そのまま入院→点滴→療養→戦線離脱となりました。

免疫力が落ち、ウイルスに感染する。

いわゆるオーバーワークの現象でした。

五輪の夢はあっけなく消え失せました。


<男坂、女坂、まさか>

入院先のベッドで天井を眺めながら「夢って叶わないものなんだなあ」と思いました。

涙なんてちょちょぎれて、悔しいとか悲しいとか、そういう普通の気持ちは起きませんでした。

「人生には3つの坂がある。男坂・・・・女坂・・・・まさか」

芸人の友近さんがコントで言っていたセリフが、なぜかそんな超絶望的なタイミングで頭の中でリフレインしました。


2012年(32歳) カルビンとの散歩

<コーチSiri の アシスタントになる>

コーチSiri に「選手をやめる」と伝えたのは肝炎完治後すぐのことでした。

まだ五輪選考までやれることはありましたが「心身ともに燃え尽きた」と伝えました。

するとコーチは全てを悟り「私のアシスタントになりなさい」と言いました。

目標を失い、路頭に迷っていた私にとって、その一言はありがたかったです。

練習後のブランチにて。仲間にはとにかく恵まれた↓

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コーチのそばで指導のノウハウやスキル、強くなるメソッドなどを学びました。

「指導者って選手よりも何倍も大変な仕事なんだなあ・・・」

人を導く立場の人間(コーチ、先生、社長、親など)の葛藤・苦悩に、生まれてはじめて気づきました。

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「Takka(当時ニックネーム)、あなたはコーチに向いていると私は思う。でもコーチになったらハードワークが待っているから、コーチになるかどうかはよく考えた方がいい。あと、トライアスロンのコーチになったらとても多くのお金を稼ぐことはできないだろう。でもTakkaにはコーチになって、多くの選手やお客さんを導く役目を担ってもらいたい」

それが日本に帰国する前に、Siri にかけられた最後の言葉となりました。

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<愛犬カルビンとの友情>

余談ですが、私はコーチの愛犬カルビンのう●こ掃除もやっていました。

それまでワンコなんて一度も可愛いと思ったことはなかったけど、う●こを掃除すればするほど愛着が湧き、仲良くなっていきました。

トレーニングガレージで遠くを見つめるカルビン↓

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愛犬カルビンとの散歩↓

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カルビンを連れてロサンゼルスの街を歩きながら色々なことを考えました。

「多くのものを犠牲にしちゃったな」

「日本にはどんな顔して帰ろうかな」

「自分で広げた風呂敷をちゃんと自分で畳めたのだろうか」

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カルビンとの散歩を経て、ピーンと張り詰めていた糸が日に日に緩んでいくのを感じました。

今は天国に逝ってしまったけど、カルビンには感謝しなくてはと思います。


2012年(33歳) 帰国

コーチになり、もうすぐ9年目を迎えます。

まだまだすぎて自分のことを「コーチ」と呼んでいいものか、迷い悩む日も多いです。

けれども、No excuseの精神でこれからも1歩1歩進んでいこうと思います。

(完)


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トライアスロンコーチとして活動しながら、健康経営プログラムの開発等をしております。趣味は陶器収集(萩焼と笠間焼)です。チームシリウスジャパン代表。https://teamsirius.jp
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