自立・挑戦・交流
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自立・挑戦・交流

島根県の港からフェリーで3時間以上、日本海に浮かぶ小さな離島の海士町(あまちょう)に出向することが決まったのは平成27年のことでした。
この年は地方創生元年と呼ばれ、地域活性化に取り組む自治体と霞が関の若手官僚とをマッチングする地方創生人材派遣制度がスタートした年でもあります。
霞が関での行政経験が6年目となり、学校現場よりも国家公務員として働く期間の方が長くなっていたので、私の中では現場に行きたいという想いが強くなっていました。
そんな時に地方創生人材派遣制度か始まりましたので、当時の私は迷わず手を上げ、離島の高校魅力化に取り組む海士町への派遣が決まったのです。
海士町への2年間の出向という旅の中で、私は数えきれないほと多くのことを学ばせてもらいました。その一つがタイトルにある「自立・挑戦・交流」という言葉です。

海士町は人口2300人の小さな自治体なのですが、この島に年間2千人以上の人がまちづくりの視察に訪れます。
海士町は地方創生が叫ばれる10年以上前から、人口減少と財政難という課題に立ち向かうため、役場が中心となって島全体で地域活性化に取り組んできました。
産業面では、雇用創出のために地産地商に取り組み、隠岐牛や岩牡蠣春香、サザエカレー、ふくぎ茶などのブランド商品を次々と生み出していきます。
また、教育面では、少子化により廃校寸前だった島根県立隠岐島前高校の魅力化プロジェクトを立ち上げ、全国から島留学生の集まる魅力ある高校に変貌させます。
こうした成果が実を結び、夕張市の次に財政破綻するのは海士町とまで囁かれていた財政危機を回避するとともに、10年間で町の人口の約2割となる500人を超える移住者を受け入れるまでになります。
そんな海士町が掲げている町政の基本方針が「自立・挑戦・交流」です。海士町はこれを町役場や港にデカデカと掲げています。教師だった頃、教室の時計の横あたりに学校目標などを掲げていましたが、それを島全体でやっているのには驚かされました。

海士町に来る視察者からは、よく「海士町のまちづくりの秘訣は?」と聞かれることがあります。
答えは一つではないのだと思いますが、私は、役場職員をはじめ、町民全員がこの「自立・挑戦・交流」を愚直に、本気で、そして楽しみながら取り組んできたことだと感じています。
私自身は、教師から文科官僚へとステージは変わっても、どちらも公務員であることには変わりがなく、継続性(前例踏襲)だったり、専門性(縦割り)だったりを重視する世界で仕事をしてきたこともあって、自立や挑戦、交流をこれまで本気でやってこなかったと思い知らされました。

海士町は平成の大合併の際も「自分たちの島は自ら守り、島の未来は自ら築く」という気概で、合併を拒否し、自立の道を歩みます。
役場の職員も失敗を恐れずに、当時の山内道雄町長の「やったらいい、やらないよりはいい」の言葉の下で、挑戦を続けます。
そして「交流は手段ではなく目的」との考え方で、島内外の交流が加速し、想像もできなかったような化学反応の連鎖が起こります。
海士町は、この「自立・挑戦・交流」を島全体で実行することで、数えきれないほどの困難を乗り越え、まちを創ってきました。そして、何よりも「自立・挑戦・交流」を通して、海士町は人づくりをしてきたのだと思います。
2年間という短い出向期間でしたが「自立・挑戦・交流」を通して、人が成長していく姿を目の当たりにし、私自身も成長を実感できたことは、教育に携わるものとして何よりの学びでした。

なお、文部科学省が平成25年に策定した第2期教育振興基本計画では「自立・創造・協働」の3つの基本理念を掲げ、現行の第3期計画でも継承していますが、この3つのキーワードと「自立・挑戦・交流」はリンクしていると私は考えています。
そのことに気付いたとき、文部科学省にいながら、あまり意識してこなかった自分の視野の狭さを恥じるとともに、物事を腹の底から理解するとはこういうことなのか、と嬉しくなりました。
私にとって「自立・挑戦・交流」という言葉は、島を離れても人生の指針として、今も深く心の中に残っています。

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(海士町役場の写真:海士町ホームページより)

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1981年の福岡生まれ。岡山県で中学校の教師を4年経験したのち、文部科学省に入省。その後も島根県の海士町や岩手県への出向を経験。 学校現場から文科省、県教委、町役場と、様々な立場から教育に携わってきた道のりはまるで旅のようで、そんな旅の中で出会った言葉をここに綴っています。