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【エッセイ風連載小説】Vol.23『その謎はコーヒーの薫りとともに夕日に解けて』

Vol.23
最終回「さよならゲーム ~人生は続く、そして~」

 
 
先日、カフェで笑顔の素敵な女性店員さんが手渡してくれた白いハンカチ。洗濯をしたのち、どこかにしまい込んでいたアイロンを引っ張り出して、何年か振りにアイロンをかけた。
 
アイロンをかけながら、ふと思う。
昔読んだ村上春樹の小説で、アイロンをかけることで主人公が自分の気持ちを落ち着かせるくだりを読んだ気がする。

実際に自分がアイロンをかけている時は落ち着きよりも緊張が大きかったが、幾度目いくどめかのシューという蒸気が、そんな張りつめた空気にうるおいを与え、いつしか心地良さを感じていた。
 
ハンカチを真剣にアイロンがけしている自分を俯瞰ふかんした時、そんな自分を少し照れ臭くも滑稽こっけいに思う。と同時に、なんだか自分が整っていくような不思議な感覚を覚えた。
 
ハンカチを洗い、そのハンカチにアイロンをかける。普段からハンカチを使っている人にとってはありふれた日常なのかもしれない。しかし、ハンカチを持ち歩く習慣のない人にとって、ハンカチを洗い、そしてアイロンをかけるというその行為は非日常だ。
 
乾いて少しゴワついているハンカチがアイロンによってキレイに伸ばされていくその様は、小さくくるまっていた猫がリラックスして大きく伸びをするように見えて、なんだかいやされる。
 
日常の中にあるふとした非日常、そのさりげなくも印象的な情景じょうけい。気づいたら、自分が持っていたハンカチをすべて引っ張り出して、ことごとくアイロンをかけていた。自分をきちんとしたいと思った。正しいことをしたい、そう思った。
 
「行こう」
アイロンがけで整ったココロと気持ちがカレの背中を押し、そして優しく前へと押し出してくれた。
 
目的地は先日訪れた、たまプラーザのカフェ『N』。笑顔の素敵な女性店員さんにハンカチを返しに行く。ただ、それだけ。

それで何が変わるわけでもないだろう。でも、そんなことは今のカレにとって重要ではない。

今日で「会話を巡るカフェの旅」を終える、そのためのこれはいわば儀式のようなものだ。
 
「モテるとは?」
「いいオトコとは?」
 
今までずっと、それはどこかのカフェで名も知らぬ女性から福音ふくいんのごとく伝えられるものだと思っていた。森を飛び回る小鳥のさえずりのようにささやかれるその答えに出会うのがこの旅の目的なのだ、と。宝を求めて東へ西へと、その音色を探すことが。
 
でも、違った。本当の答えはきっと、人から聞き伝えられるものではなく、自分自身がどこかで何かから導き出すものなのだ。
 
長期休暇になるときまって、日々の疲れを癒したいとばかりに旅行に出かける人みたいだな、自分をそう皮肉ひにくる。
 
何もかもが混雑し、疲れが取れるどころか余計に背負わされ、癒されるどころか、人の多さにイライラして休暇を終える。繁忙期はんぼうきに旅行に行くという、いかにもリア充な雰囲気に流されて疲れが取れた気になり、癒された気になっている。それは全部気のせい。やっていることは周囲へのさりげなくて下品なマウント。
 
カレにとってのカフェ巡りがまさにそうだった気がする。カフェに行って、女性たちの会話を聞くことで、女性の気持ちを理解し、そしてカノジョたちの本音を知り、結果自分がモテるオトコに近づいている・・・そんな風に思って、痛々しくドヤっていた気がする。
 
でも、そんなものはただの雰囲気にすぎない。実際は何にも変わってないし、何ひとつ成長していない。
 
でも、だからこそ、今カレが手にしているハンカチがカレにとって鍵となる何かを秘めている気がしていた。なぜなら、そのハンカチが握る物語だけがカレにとって唯一の「現実で起きた出来事」だからだ。
 
たまプラーザ駅を降り、カレは改札を出た。先日カフェまで歩いた時と同じ道を、カレは歩いていた。前回はまるで敗北者のような心持ちだったが今は違う。チャレンジャーのような気持ちで歩を進めている。
 
あともう少し。
大通りの信号を渡ればその先にカフェがある。赤く輝く「待て」のサインにカレは今一度ココロを落ち着かせる。
 
やがて信号が青になった。
信号待ちをしていた周りの人たちが動き始めたのち、カレもまた信号を渡り始めた。その時ふと、向こう側からやってきた誰かの視線を感じた。
 
笑顔が素敵なあのカフェ店員さんだった。
「あっ!」
カレは大通りのど真ん中で思わず声をあげ、立ち止まった。
カノジョもそれにつられて立ち止まる。
 
「先日はどうもありがとうごさいました」
カレの存在を覚えていてくれたようだ。カノジョが声をかけてきた。
「あ、いえ」
カノジョは笑顔のまま、その場を去ろうと再び歩き出した。
あまりに唐突な出会いにカレはうまく言葉が出てこない。今日はカノジョにハンカチを返しにここまで来たのに。
 
カノジョは仕事を終えたか、あるいは別のどこかへ向かおうとしているのだろう。
 
急いでそうだし、ハンカチはまた日を改めて渡せればいいか、一瞬そんなネガティブな思いでその場をやり過ごそうとしたが、カレは思いなおす。
 
「あの!」
すれ違って数メートル進んでいたカノジョの背中に声をかけた。
「少しだけ、いいですか?」
カレはありったけの勇気をかき集め、声をかけた。
 
その数分後、カレとカノジョは大通りを渡った先にある公園のベンチに座っていた。カノジョは今日の仕事を終え、帰るところだった。
 
「先日はどうもありがとうございました」
これってさっき、カノジョから言われた言葉だ・・・オウム返しをしていることに気づき、カレは自分の非モテぶりを改めて思い知らされたようで落ち込む。こんな時、モテるオトコならもっと気の利いたことを言うのだろう。
 
「あ、いえ」
そうだろう・・・カノジョが言えることは「あ、いえ」ぐらいだ。気持ちばかりが焦ってしまい、思わず冷や汗が出る・・・冷や汗?そうだ!
「ハンカチ、どうもありがとうございました!」
そう言ってカレは頑張ってアイロンがけしてきたカノジョのハンカチを差し出そうとした。
「あ!」
もしかしたら、ハンカチをカレに渡したこと自体を忘れていたかのようなリアクションだ。しかし、カノジョのリアクションには別の理由があった。
「感動しますよね、あの話」
 
───ん?カノジョもあの話を聞いていたのか。仕事中だったのに、仕事しながらあの話を聞いていたなんて、まるで聖徳太子みたいだ。
 
「特にどこがよかったですか?」
「どこが??・・・全部、ですかね」
何と答えるのが正解だったのか、それはわからないが、カレにとって愛犬との別れの「あの話」は特にどこかではなく、そのすべてに泣けた。
「私は・・・」
先ほどと違い、カノジョはとても前のめりだった。

確かに、感動的な話ではあった。しかし、そんな前のめりで話すような話だったか?むしろ、しんみりと語る話だったはずだが。
 
違和感を感じながらも、カノジョの語りの続きを聞いていた。
「私は、やっぱり主人公が自分の人生を失ってでも年老いた弟との約束を果たさんとするところですかね」
カレの頭の中にクエスチョンが増えていく。
「あの物語で泣く人って、なんか素敵だなあって思ったんです。だからついハンカチを・・・」
 
───弟???
カレが思う「あの話」に弟は出てきただろうか?・・・いや、出てこない。カノジョはいったい何の話をしているのだろう?あるいは、自分を違う誰かと間違えて話しているのでは?疑問が疑問を呼ぶようなカオスな状況に耐えられず、思わずカレは話を止めた。
 
「ちょ、ちょっと待って下さい。一つ確認させて下さい」
カレは「あの話」について訊いた。
「愛犬の話ですよね?」
「・・・愛犬??」
「違うんですか?」
「本の話です・・・よね?」
「本!?・・・本?」
カレは前回のカフェでの記憶を辿っていた。そして一つの可能性に行きついた。
「もしかして・・・」
カレは自分の鞄から一冊の本を取り出した。
「そうそう!それです!その本!」
 
何てことだ・・・カノジョは完全に勘違いしていたのだ。カレは即座にその勘違いを正そうとした。しかし・・・さっきのカノジョの言葉が頭をよぎる。
 
───あの物語で泣く人って、なんか素敵だなあって思ったんです。
 
カノジョは今、明らかに自分に対していい印象を抱いている。もしかしてこれは大チャンスなのではないのか。しかし・・・
「愛犬って?」
改めて、カノジョが訊いてきた。その疑問は当然だ。でも、このまま有耶無耶うやむやにしてしまえばいい。カレにとっての千載一遇せんざいいちぐうが今目の前に訪れているのだ。
 
枉尺直尋おうせきちょくじん」・・・大きなことを成功させるためには、小さな犠牲はやむを得ない、この場合はそう考えるのが賢明けんめいなんだ、自分にそう言い聞かせることもできたかもしれない。しかしカレはそうしなかった。
 
カレは「因小失大いんしょうしつだい」のいましめを選択する。目先の小さな利益にこだわり、かえって大きな損失を招く。カレが会話を巡るカフェの旅で学んだこと。そして何より、本来のカレの人間性がそれを許さなかった。
 
カレはカノジョに対し、正直に話した。
 
あの時、自分は本を読んでその内容に涙したのではないこと。隣のテーブルにいた女子ふたりの会話を聞いていたこと。その内容が愛犬と飼い主の話であったこと。その物語を聞き、気づいたら泣いていたことを。
 
カノジョの軽蔑の眼差しを見るのが怖くて、カレはずっと前を向いたまま話を続けた。カノジョの相槌あいづちも反応もわからぬまま、ただただカレは話し続けた。
 
カレは語り尽くした。そして、おそおそるカノジョを見た。

カノジョは泣いていた。

カレは慌てて、手に持っていたハンカチを差し出す。しかし、それはカノジョから借りたハンカチ。最悪のタイミングでハンカチを返したカレは、自分のポンコツぶりにつくづくあきれた。
 
こんな時、イケてるオトコならきっと、さりげなく自分のハンカチを差し出すのだろう。なのに・・・
 
やれやれだ。そんな間の抜けた言葉が思わず口から出かかる。
 
だけど、そんなことよりも盗み聞きをしたうえに、その話で泣くというあまりのカッコ悪さにきっと軽蔑されるだろうと、カレはとても怖かった。
 
カレは何も言えぬまま。カノジョもまた何も言わず静かに涙をぬぐっていた。

沈黙が続く。その沈黙はカレにとってまるで永遠に思えた。しかし、その永遠とも思えた沈黙を破ったのはカノジョの意外な一言だった。
 
「優しいんですね」
長い沈黙のあと、それがカノジョの第一声だった。
 
ネガティブな言葉を覚悟していたカレにとって、その言葉は非現実的すぎて、意味を把握するのにしばらく時間を要した。ようやく理解が追いついた時、カレは改めてハンカチのお礼と、ハンカチを返すタイミングの悪さを詫びた。
 
「確かに、言われてみるとタイミングちょっとおかしかったかも」
そう言ってカノジョは笑った。まるでコントみたいです、とまた笑った。
 
こうやって目の前で誰かが笑うのを見たのって久しぶりだな、カノジョの笑い顔を見ながらふと、カレはそんなことを思った。
 
カレの今までのモヤモヤが全部吹っ飛ぶくらい、清々すがすがしくて、そして素敵な笑顔だった。
 
「もしかして・・・今日はこのハンカチを届けにお店まで?」
「はい」
「信号で会わなかったら行き違ってたかもしれません。今日は早上がりだったので」
「あ!なんか、時間取らせてしまってすいません!早上がりってことは、このあと用事ありますよね?」
カレは立ち上がり、カノジョに帰るよううながす。
「大丈夫です。今日はもう帰るだけなので。あ!逆にもしこのあと用事あるようでしたら・・・」
「いや、大丈夫です。何も用事はないので」
カレは慌てて座りなおした・・・が、いざ女性と二人っきりになっても何を話せばいいのかわからない。

あせるなか、カレは本を持っていたことを思い出す。
「この本、読んだことあるんですね」
 
その本はカノジョにとってお気に入りの一冊だった。ただ、カレはまだその本を途中までしか読んでいない。ネタバレしない程度にカノジョからその本の内容を聞かせてもらう。
 
「カフェで読書っていいですよね。テーマパークとかも楽しくていいけど、本を読みながらどんどん物語の中へ入っていく感じってワクワクしません?」
カレは曖昧に返事をした。カレ自身、それほど読書をしないということもあったが、それ以上にカフェで読書など、ほぼしたことがない。
 
それに・・・カノジョのように純粋に読書を楽しむためにカフェで本を開いていたわけでもない。たんなる現実逃避のためだったのだから。
 
そんなこととは知らず、カノジョはカフェでの読書の素晴らしさを熱く語っている。その話を曖昧に聞き流すこともできたが、カレはそうしたくなかった。嘘をつきたくなかった。
 
「実は・・・」
 
先日、カノジョが働くカフェで本を開いていた理由をカレは正直に話した。
それはカレが、とあるカフェで「モテる」ことについての話をたまたま耳にしたことがきっかけとなり、そこからカレの会話を巡るカフェの旅が始まったのだが、それは「モテるオトコ」そして「いいオトコ」とは何か、その答えを見つける旅であった。
 
順調そうに見えた旅だったが、その道中どうちゅうで、自分がやっていることの意味や価値を見失い、そして今に至っている、と。
 
「カフェで泣いてしまったのがあまりに恥ずかしくて、本当は二度とここには来ないと思ってたんです。けど・・・それだと何も変わらない気がして」
カノジョはカレの言葉を一言ひとこと丁寧に聞いていた。

「変わりたいんですね」
カノジョが優しく声をかけた。
カレは何も言わず、ただ前を見ていた。
 
「私なら来ないかも」
「えっ!?やっぱり来ないほうが・・・」
「あ、いや、違います!私ならそんな勇気ないかも、って」
められているともいえるが、やはり気持ちは複雑だ。
「それで・・・わかったんですか?モテるオトコとかいいオトコとか?」
カレは首を横に振った。
「全然です。けど、もういいんです、そんなことは」
「どうして?」
「そういうのって誰かに教えてもらうものじゃないな、って思って。それに・・・」
「それに?」
「モテることより大切なことがあることだけは、わかった気がします」
「・・・けど、モテたいですよね?」
「えっ!?」
「モテるかモテないかなら、やっぱりモテたいんじゃないかな、って」
カレが答えに困っていると・・・
 
「じゃ、モテるかどうか、心理テストしましょう」
「えっ!?」
「あなたは自分と友達になりたいですか?」
 
もし、もう一人の自分がいたとしたなら、その人(自分)と友達になりたいか?その心理テストで何がわかるのかは予想もつかない。カレは自分の思いそのままに、奇をてらうことなく正直に答えた。
 
「はい・・・」
このテストでどんなことがわかるだろう・・・そう思いつつもカレは恐る恐る、そう答えた。
「なぜ?」
 
なぜ?
カレは考えた。自分がもし目の前にいたなら?そしてとてもシンプルな答えに辿り着く。
 
「悪い人じゃないから」
「もう少し具体的に」
「結構いいヤツだと思うし、友達を大切にします」
「他には?」
「・・・誰も傷つけたくないし、誰にも傷ついて欲しくないです」
独り言のような、カレの最後の言葉は、カレの心の祈りだった。
 
恥ずかしそうに心の内を吐露とろしたカレを、カノジョはそっと見ていた。
「心配して、ちょっと損しました」
「えっ?」
「だって、もうモテてますよ」
「・・・えっ?」
 
カレにはカノジョの発言の真意が全くわからなかった。
 
「だって・・・自分にモテてるじゃないですか」
 
───自分にモテる?
 
「友達になりたいっていうのは、好意そのものです。人としてあなたのことが好きだから友達になりたいんです。もし誰かに『友達になりたい』って言われたら嬉しくないですか?」

イヤな人と友達になりたい人なんていない。

 「自分と友達になりたい、ココロからそう思える人はそれだけで素敵です」

カノジョの言葉を聞いてようやくカレは理解した。そして、モテるとは何かが少し、わかった気がした。
 
モテるとかモテないとか、他者からの評価ばかりを気にして生きてきた。しかし、大事なことは常に自分の中にある。自分次第なのだ。ずっと自分の中にあったのに、今まで全く気づけなかった。ずっと周りに振り回されていた。
 
灯台下暗とうだいもとくらし。
なんだか可笑おかしくなって、カレはちょっとわらってしまった。
 
「あなたはいい人だし、自分にモテてる『イケてる人』です」
そう言ってカノジョは微笑んだ。
「それに、誰かのために涙を流せる人ってそれだけでもう『いいオトコ』だと思いますよ」
嬉しさよりも気恥ずかしさでカレはテンパりつつも、その感謝を伝えたくなった。

「あの!」
カレは勇気を振り絞った。

「お礼、させてくれませんか?」
「お礼?」
「ハンカチを貸してくれたお礼と、そして勇気をくれたお礼です」
カノジョは少しビックリした様子だったが、すぐにカレに笑顔を見せる。
「では、お言葉に甘えて。じゃ・・・コーヒー飲みに行きません?」
 
カレはオススメのカフェをスマホで検索し始めた。こういう場合、一度行ったことのあるカフェをチョイスするのがセオリーだろう。
 
カレは今まで行ったカフェのリストを確認する。
 
北参道のカフェ『L』、原宿のカフェ『I』、代官山のカフェ『F』、天王洲のカフェ『E』、渋谷のカフェ『G』、二子玉川のカフェ『O』、品川のカフェ『E』、乃木坂のカフェ『S』、上野のカフェ『O』、三宿のカフェ『N』、三軒茶屋のカフェ『A』、たまプラーザのカフェ『N』。
 
それぞれのカフェにそれぞれの思いがある。そうした余韻よいんひたりながらも、どこかよさげなカフェを、とカレが何度かそのリストを見ていたその時だった。
 
カレは神様の心憎いイタズラに気づいてしまった。
 
カフェの店名の頭文字をもう一度眺めてみる。
LIFEGOESONAN

その文字に神様が息を吹きかけるとこうなるのではないか。
LIFE GOES ON AN
訳すと、こうだ。
「人生は続く」
 
しかし、字余り。ANが残った・・・が、これってもしかして・・・カレは思い立つ。
 
ずっと前から一度は行ってみたいと思いがれていたカフェがあった。そこは山の上にあるカフェ。カレは勇気を出してカノジョに提案した。
 
「少し遠いのですが・・・夕日がキレイなカフェ、行きませんか?」
 
そう言ってお店の画像をカノジョに見せる。
「行きましょう!」
やはりカノジョの笑顔は素敵だ。
 
田園都市線の下り電車に乗り、二人は山の上にある、そのカフェに向かう。
 
電車の中でカレはふとカノジョに質問する。
ハルキ村上春樹って読んだりしますか?」
「結構読んでます」
「自分の気持ちを落ち着かせるためにアイロンをかける主人公が出てくる話、ありませんでした?」
カノジョは少し考え、そして答える。
「確か、1のえり(表)に始まり、12の左袖・カフで終わる。『ねじまき鳥クロニクル』ですね」
 
それを聞いてカレも思い出した。
「奥さんや猫を探しながら展開する複雑な物語に見えて、あれって自分探しであり、自分を救う物語だと思うんです」
カレはその内容をあまり覚えていなかったが、カノジョの解説によって物語の独特な雰囲気を思い出し、またあの世界に浸りたいと思った。
 
二人が山の上のカフェに到着した時、すでに日がかなりかたむきかけていた。
 
テラス席に座った二人のテーブルには二杯のコーヒーが置かれた。ゆっくりと夕日が輝きを増す。二杯のコーヒーが影を作った。

今日の夕日が二人に別れを告げようとしている。
 
「あの・・・」
「はい」
カレは改めて勇気を振り絞り、訊いた。
「名前、訊いてもいいですか?」
 「・・・あっ!?」
二人ともお互いの名前を知らないのだ。
それがなんだか可笑しくて、二人は思わず笑ってしまった。
 
お互いにきちんと向き合う。
「はじめまして、名前は・・・」
 
簡単すぎるその「謎」はコーヒーのかおりとともに夕日に解けた。
 
「Life goes on」
直訳すれば「人生は続く」だが、実は二つの意味を持つ。

自分自身に対して使う場合は、「頑張らなくちゃ」「くよくよしていられない」「しっかりしないと」というニュアンス。そして、誰かを励ますときに使えば「しょうがないよ」「それでもしっかりやっていかないとね」となる。
 
「Life goes on」
自分を鼓舞する言葉であり、そして誰かをなぐさめ、励ます言葉。

自分が引き寄せたのか、あるいは何かに導かれたのか、カレの人生が続く限り、その言葉が時にカレの背中を押し、時にカレを優しく包むのだろう。
 
しかし・・・ANという字余りでは神様も不満なはず。最後はビシッとカレが決めなければ。

カレが最後に選んだ山の上のカフェは『D』。
ANにDを加え、カレはANDにした。
 
ANDつまり「そして」・・・カレが自ら選んだ『D』によって、人生のその先の希望と期待へと繋いでみせた。
 
───うん、悪くない。

最後の謎を解いたカレは、今日の夕日に今まで行ったカフェでのすべての答えと二人の名前を溶かした。
 
達成感と不思議な安堵あんどで、カレがゆっくり目を閉じ夕日を感じていたその時、遠くで誰にも聞こえないくらい小さくウェストミンスターの鐘が鳴る。

夕刻ゆうこくを知らせるあの時鐘ときがねがあんなにも切なく響くのは、子供たちにとって友達とのしばしの別れを想起そうきさせるからかもしれない。

会話を巡るカフェの旅もまた、名残なごり惜しくもその終わりを告げたようだ。しかし・・・

夕闇を過ぎ、暗闇を超えた先には必ず、新しい夜明けが待っている。

Life goes on and… 
人生は続く、そして・・・カレとカノジョの物語は今、始まったばかりだ。

                    おわり

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