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0410 Leicaで記録に残すということ

テレワークでも地味に忙しくnoteの更新が24時間際が続いていて、これは気を抜くと連続が途切れる前触れのような気がする。

以前の記事で壮大にいいカメラを買う前振りをしていたのだが、回収していなかったのを思い出した。

その存在はずっと片隅にあった、「いつかはLeica」と呼ばれるカメラである。
とんでもなく高いカメラというイメージは当たり前のようにあり、自分とは違う世界のカメラだとずっと思ってきた。
一眼で十分に綺麗だし、そのスペックをいくら見比べてもその価格差は埋まる事がない。
しかしレビューや買った人の話を聞くとみな口を揃えて言う。
「ライカの画はライカでしか出せない」
いやいや、RAWで撮れば後でどうにでもなるでしょ?一眼の方がレンズも大きく画質もいいでしょ?どうせ金持ちの道楽品でしょ?
そうずっと思ってきた。

一眼を手にして10年目、もう写欲も前より無くなってしまい、撮影の依頼や仕事の写真しか撮らなくなってしまった時、一緒にいる人たちを一緒に生きた人たちをちゃんと撮ってきてなかった、という事に気づいた。
女子高生じゃあるまいし、おっさんがおっさんを撮るなんて恥ずかしいし、必要ないと思っていた。 でもその時、その瞬間はもう2度と訪れることはない。おっさんだけに先輩方は突然現場から姿を消してしまっていった。
あんなに毎日会っていた人たち、当たり前に話していた人が今日はもういない。
誰から何を言われようと自分は一緒に生きた人たちを記録に残したい、写真を趣味にした者として積極的にそう生きたい。
人からすごいねっていってもらう写真じゃなく、いい顔してたねって後から言える写真を撮りたい。 そんな今までの人生で感じたことのない感覚を持った時に、ライカという言葉が脳裏をよぎった。

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中古のライカ M10-P と50mmのズミクロン
何本ものレンズと引き換えにやってきた。

初めてのレンジファインダー機、構図も若干ズレるし、連写もきかない、フォーカスももちろんマニュアルだ。
でもそれだけ写真に集中できる。ピンが外れてても気にしない。

いいレンズは空気まで写る、と言うが、その空気まで本当に残してくれる。なんならいい空気にして残してくれる。ここが一眼と大きく違うとこだろう、そのままが残るんじゃない、ちょっといい雰囲気にして残してくれる。このちょっといい雰囲気という絶妙なトーンがライカがライカである所以なのだと思う。
特にハイキーの色気は一眼とは違う何かを感じる。
それはライカだからというプラシーボかもしれないが、逆にそこまで思わせるのがライカなのかもしれない。

これで私は今を切りとり、残していく。これだけ人と会えない環境になってしまった今。会える人、会える時を大切にしたいと思う。

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