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「隔離」と「感染」のデジタル・ドラマトゥルギー──ジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレ『快適な島』評

岩城京子(演劇パフォーマンス学研究)
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関心経済の格言は「我シェアする、故に我あり」

 西洋ルネサンス時代の一点透視図法は「人間の驕り」によって誕生した。「私」という白人男性である主体が「絵」に描かれた客体を、秩序だったかたちでコントロールしたい。そのために、歪み、濁り、ひずみ、ブレ、闇、醜さ、見苦しさなどのカオス的混成体であるリアルを、明晰な尺度に収めたい。そうして様々な人工的フィルターを用いて、女性・動植物・病原菌などの「他者」を、私の画布のなかに「confine(隔離)」することに成功したのが、ヒト・シュタイエルが言う「主体的意識」をものの見事に一点集中させてみせる西洋近代絵画なのだ。[1]
 この絵画的思考を、画布よりも画面を見ることに慣れた現代人の視座から再考してみる。すると、ルネサンス絵画はいまで言う「アテンション・エコノミー(関心経済)」の先駆的発明のようにおもえてくる。観るひとの関心を惹くために、あるいは観るひとの合点がいくように、画布上のオブジェクトたちを補正加工する。これは加工アプリを用いて、顔面、風景、料理などを同尺度の美しさに修正する、現代人の欲望とどこかでつながっている。1968年にアンディ・ウォーホールは、誰もが「15分間の名声」を得られる時代が来ると宣言したが、スティーヴ・ディクソンが言うように今まさに、誰もが「15メガバイトの名声」を得られる世界が到来したのだ。
 ただここで留意せねばならないのは、現代においては、制御する主体と制御される客体の関係性が、なかば反転しているということ。なぜなら手元にある稀少な「関心貨幣」を最大限活用して、文化的・社会的・政治的なパワーを確実に得るためには、他者の視座におもねり自分を補正改善し、画面という名のプロセニアムを意識して、不特定多数の人びとの欲望を煽る「強迫的なパフォーマンス (compulsive performance)」を続けていかねばならないからだ。[2] ちなみにシェリー・タークルはデカルトを更新するかたちで、他者に「いいね!」されることで承認欲求を充たす若者たちの基本思考を「我シェアする、故に我あり」という格言で説明した。[3] 他者へのパフォーマンスの出来高で、彼らは自己存在を担保しているのだ。
 この常時デジタル・パフォーマンスの時代において、若者たちは情報刺激の過剰供給状態にある。あっちからもこっちからも「見て!」という媚びが反響してくる。そんな彼らは、『Forbes』誌の記事によると、なんと平均12秒しか視覚的に集中していられないという。[4] となるとこの集中力散漫時代において、観客を劇場内に隔離して、何時間もの集中を強要する、例えばワーグナーのバイロイト祝祭劇場に代表されるような演劇体験は、時代の流れに真っこうから抗う潔癖な古典芸術、あるいはもはやある種の「時間拷問」に近いかもしれない。もちろん格式張った古典もあったほうがいいし、狂気的なワグネリアンもいたほうが世界は愉快だ。けれどブレヒトが言うように、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、「今日の危機」はそれに応答する「新しい演劇」の誕生を希求する。[5] いま求められているのは、Zoomミーティング、オンライン授業、eスポーツが当たりまえとなり、電子生活が肉体生活への侵入・浸透・浸食に成功した、「私」という主体秩序が壊れたあとの、情報革命後のドラマトゥルギー。そして年上世代が退屈に考えあぐねているあいだに、このデジタル・ドラマトゥルギーを同時代感覚でさらりと具現化してみせたのが、ベルギー出身のミレニアル世代作家ジルケ・ユイスマンスとハネス・デレーレだ。

複層的な「隔離」のデジタル・ドラマトゥルギー

 『快適な島』の舞台上には、ふたつの巨大なスマートフォン画面が屹立する。この自分たちの二倍はあるであろうスクリーンの横に、作家のふたりは控えめなおももちで立ち、直立不動のままうつむいて、手元のスマホを操りつづける。観客は上演時間の約一時間、彼らのスマホ内に収容された、音声、動画、写真、SNSチャット、ライブ文字入力などを眺めつづけることになる。彼らがアプリ経由で紹介する登場人物たちは、日本からもベルギーからも、物理的、文化的、精神的に遠く離れた太平洋南西部に浮かぶナウル共和国で暮らす人びとだ。ほぼ港区と同面積しかないこの孤島は、リン鉱石の輸出によって英国に「快適な島」と命名され、いっときは英国に経済的に搾取され、またいっときは軍事戦略のため日本軍に占領され、終戦が告げられ資源が枯渇するや否や、今度はオーストラリアが入国拒否する難民たちの収容所として利用されるようになった。という、まるでグローバル資本主義の搾取構造を縮図化したような島なのだ。
 慎ましさのある作家ふたりは、ナウル島で数週間暮らすリサーチを終えたのち、グローバル資本主義の被害者である島民たちの現実を、一貫性のあるナラティブとして物語る、という前述した一点透視図法に則るドラマトゥルギーを採らないことにきめる。そうではなく本作では幾重もの、断片的で、複層的で、不可視な「confine」が表象されていくことになる。それは第一に、豪州政府によりナウル島に物理的に「監禁」された難民たちである。第二には、その難民たちの発言や行為をスマートフォンに「回収」するリサーチャー兼作家のふたりである。第三には、昨今の、当事者を代弁する「委任されたパフォーマンス」を倫理的によしとせず、その考えに基づき作家権限を暗に「制限」する私たち観客の視線である。そして最後に、資本主義経済の恩恵に授かる劇場客たちが、日常的に目をつむろうと決めにかかることで、日陰に「隔離」されたサバルタンたちである。
 ピーター・ブルックやアリアーヌ・ムヌーシュキンという「天才的」演劇作家たちが、創造主という主体の栄養分として、気ままに異国文化を搾取できたのは、もはや牧歌的な昔日の出来事だ。彼らから二世代若いジルケとハネスは、自分たちが弱者を制御する側の主体であり、かつ同時に、制御・監視される客体でもあることを十全に自覚している。だからこそ「第四の壁」の向こうにいる私たち観客とのアイコンタクトをほぼ遮断し、またいわば「第四の画面」の向こうにいるナウル島民の発言をひとことも代弁することなく、自分たちに与えられた「小さな限られた持ち場」から一歩も動かずに、無言のまま、距離感のある他者の立場をつらぬく。また同時に自分たちは、スマホ内の世界であるナウル島の「外」に立つ人間であることを赤裸々に表現してみせる。そして日常的に私たちがそうであるように、スマホの向こうの対岸者たちに、刹那的な関心しか向けられない、現代人のアテンション・エコノミーの冷血さを浮き彫りにする。

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「批評的親密感」で他者に批評的に感染する

 人災や天災を表象する際、どれだけ当事者に接近できるか、という涙もろい没入感情を重視しがちな日本人にとって、彼らのドラマトゥルギーはあまりに冷酷なものにも思える。しかし東日本大震災を想起するまでもなく、当事者感情を「説明」するのではなく「表象」することはそもそも、ゴダールも先日のインスタライブで言っていたように、「言語の臨界」的に無理な要求だし、もっといえば無鉄砲な自己満足だといえる。[6] 幼少期にブラジルの田舎町で育ち、その町が2015年のベント・ロドリゲス尾鉱ダム決壊事故で跡形もなく消え去った経験を持つジルケは、当事者に接する際の距離感を、身をもって体得している(この災害をもとに、彼らは処女作『Mining Stories』を2016年に発表した)。痛ましいまでに共鳴し、感情に流されそうになりつつも、「当事者にはなれない」という鉄則を踏まえて、絶対零度の線を引く。その残酷な一線を、本作では、当事者とのあいだに屹立する無機質な画面で彼らは表象していく。
 これはだからブレヒトが言う「批評的距離」の演劇と言うより、スピヴァックの語る「批評的親密感(critical intimacy)」に近いドラマトゥルギーなのかもしれない。[7] ブレヒトの論理が、どちらかといえば、己のまなざしの守備範囲内で、他者を客体として観察したい、というルネサンス絵画と地続きの白人男性的な自己愛に根ざしているとするならば、ひるがえってスピヴァックの論理は、「論理と感情の双方」をおなじくらい抱擁し、当事者のくぐり抜けた凄絶な経験を絶対的な「一回性」のもとで正視することで、己の怠惰なまなざしを鞭打って批評化したいという他者愛の欲望から生まれている。ちなみに断るまでもなく、ミロ・ラウやジェローム・ベルなど一世代前の作家たちによる「ドキュメンタリー・シアター」やダンスは、前者の、ブレヒト的自己愛の論理から他者たちを利用する作品群と言えるだろう。そしてまたジルケとハネスは、己のまなざしのもとに他者を回収して実際に発話させる、というこれらドキュメンタリー・シアターの倫理的限界を知るからこそ、加害者である自分たちの身を舞台上で晒す、という逆転発想のポスト・ドキュメンタリーシアターを発明したのだろう。
 『マツタケ:不確定な時代を生きる術』の著者である人類学者アナ・チンによると、外部のもろもろの不確定要素を、みずからの手のうちで「contain(隔離・収容)」してしまおう、衛生管理してしまおうとするコントロール・フリークたちのふるまいは、見知らぬひとと出逢ったときに否応なく生じる「contamination(感染)」と、その結果としての「transformation(変化)」を拒もうとする頑迷固陋な保身であるという。[8] この唯我的なアーテイスト像にしがみつくことは、現代の情報化時代ではみずからの身を滅ぼす。このことを感覚的に理解しているジルケとハネスは、本作でナウル島の人びとを自分たちのもとに「隔離」するだけでは片手落ちなことにいち早く気づき、潔癖な自分という主体を瓦解させ、自分たちの生命をナウル島の人々の暮らしに「感染」させようとしたわけだ。実際、ジルケはいまだ日常的にナウル島にいる難民女性とSNSで連絡を取りあっているという。ブリュッセルで暮らすジルケの日常が、ナウル島の日常によってかすかに感染されているのだ。そう、私たちはいま身を持って学んでいる。21世紀は「隔離」と「感染」が一体の日常を生きることであることを。

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欧州劇場文脈の倫理コードを超える

 ただ最後に付けくわえておかねばならないのは、彼らの採用したドラマトゥルギーは、やはり、致し方ないこととはいえ、いかんともしがたく欧州演劇的だということ。先行世代のドキュメンタリー・シアターが抱える倫理的欠損への応答として、彼らの作品が評価されているのは分かるし、またミロ・ラウに代表されるような、現実に応答するポストドラマ演劇的なフィールドワークを彼らが重視しているのも分かる。しかしドキュメンタリー・シアターの刷新、ポストドラマ演劇の更新、という欧州業界文脈からはずれる東京港区の劇場で彼らの作品にのぞんだ観客は、事前情報がなかったならば、おそらく「なぜあなたたちがナウル島について語るの?」と素朴に思ったに違いない。
 ナウル島はネオリベラリズムの縮図であり、大なり小なり、ベルギーでも似た事態が起きているから「他人事ではないんだ」と彼らは言う。それは、そうかもしれない。けれどこの倫理的コードは、観客がいまだにほぼ全員、白人で占められている欧州の劇場でしか通用しないようにおもう。観客がほとんどアジア人である劇場で、ふたりの白人が舞台上に立つと、そこに生じるヒエラルキーにより、どうしても倫理が転覆してしまう。そして、なぜあなたたち勝者に「啓蒙されねばならないのか?」という疑問が湧いてきてしまう。彼らが真摯にナウル島の現実に向き合えばあうほど、彼らの「立脚点」は高みの見物のように思えてしまうのだ。若い作家のふたりにとっては、今回が初めてのアジア公演だったという。そして東京の初日公演を終えたときにはじめて、いかに自分たちの「主体的意識」が狭い範囲内での相対化しかなされていなかったかを、遅ればせながら自覚したという。本作が、今後、欧州内に「隔離」された狭い倫理コードを超えて、アジアという他者への「感染」をふまえて、よりいっそう発展的に改善されていくことを願いたい。

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[1] Hito Steyerl (2012) The Wretched of the Screen, Berlin: Sternberg Press.
 
[2] Sarah Bay-Cheng (2014) ‘When This You See’: The (Anti)radical Time of Mobile Self-surveillance,’ Performance Research, 19:3, 48-55.
 
[3] Sherry Turkle (2012) ‘Connected, but Alone?’ TED Talks, February 2012.
 
[4] Deep Patel (2017) ‘5 Differences Between Marketing to Millennials Vs. Gen Z’, Forbes, 27 November.
 
[5] Bertolt Brecht (1978) Brecht on Theatre: The Development of an Aesthetic, New York: Hill and Wang.
 
[6] Jean-Luc Goard (2020) ‘Jean-Luc Godard – Live Instagram 2020’, Youtube, 7 April 2020. https://www.youtube.com/watch?v=I3FP_zV4BqQ.


[7] Maaike Bleeker (2019) ‘What Do Performances Do to Spectators?’, Thinking Through Theatre and Performance, eds. Maaike Bleeker, Adrian Kear, Joe Kelleher and Heike Roms, London and New York: Methuen.
 
[8] Anna Lowenhaput-Tsing (2015) The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton and Oxford: Princeton University Press.

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岩城京子(いわき・きょうこ)
演劇パフォーマンス学研究者。専門は日欧近現代演劇史。及び、哲学、社会学、ポストコロニアル理論などに広がる演劇応用理論。2017年にロンドン大学ゴールドスミスで博士号(演劇学)を修め、同校にて教鞭を執る。博士号取得後、アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得て、ニューヨーク市立大学大学院シーガルセンター客員研究員。2018年四月より早稲田大学文学学術院所属 日本学術振興会特別研究員(PD)。単著に『日本演劇現在形』(フィルムアート社)など。2020年9月頃よりベルギーにてアントワープ大学演劇学部専任講師に着任。

撮影:佐藤駿


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