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生き延びる(ための)トリック──シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『インディアン・ロープ・トリック』評

髙橋彩子(演劇・舞踊ライター)
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 広場に現れた奇術師が空にロープを投げ、弟子の少年と共にそれを登り、少年の身体をバラバラにして地上へと降らせたり、その身体をまたもとに戻したりするという「インディアン・ロープ・トリック」。シャンカル・ヴェンカテーシュワランが、インドで古くから行われ、何世紀にもわたって誰も解明できなかったこのトリックをどのように表現するのかと、興味をそそられずにはいられなかった。
 開幕すると、どこからともなくターバンを頭に巻き、カラフルな衣裳に身を包んだ3人の俳優が現れて、楽器や人形などさまざまなものを手に、呼び込みを始める。「人生が変わるインドのスパイスはいかが?」「伝統医学の薬草から作られたインドでも大人気商品 これを使って目力で相手を悩殺」……。観客を相手にそれぞれの品を我先にと売りつけようとし始める俳優たち。東京のリーブラホールは一転、にぎやかなインドの広場と化す。シンプルな楽器のみで情景を雄弁に語る音楽もこれを助ける。その中で彼らが語り出したのが、例のトリックとその歴史だ。古くは14世紀のモロッコ人による旅行記に記され、19世紀には真偽をめぐってトリックの目撃者、再現に挑む奇術師、解明を試みる者らが相次いで現れ、大騒動になったこと、その際に新聞が、発行部数のために捏造記事を乱発して煽ったこと。劇中、トリックをめぐる状況は、幾度も再現される。
 常識的に考えれば、このようなトリックはあまりにも非現実的だ。バラバラ死体を元に戻すことの不可能は言うまでもないが、そもそもロープを掛ける場所すらない屋外でこれを直立させて人が登ること自体、物理の法則に反しているのだから。それでもこのトリックは、打ち消されれば打ち消されるほど人々の興味を引き、疑う者と同じくらい、信じる者も跡を絶たなかった。劇中語られる「西洋人には未知の秘密があるという事実は受け入れ難い」という台詞が逆説的に示すように、西洋的な知をもってしても太刀打ちできない事象があるという一面の真実も、後押ししたのかもしれない(今も偽医療の類が消えない理由でもある)。
 冷静に考えれば、そんなはずはないと思うような事柄が、繰り返し語られるうち、もしかしたらそうなのかもしれないと思えてくる。あるいは、見ていないものまで、見たような気になってくる──。これは私たちが詐欺に引っかかったり、デマや流言、都市伝説、ゴシップなどを信じたりするプロセスに似ているのではないだろうか。正義感で語る者、熱狂的に信じる者、自覚的にこれを煽る者らが入り乱れる点も含め、いつの世も変わらない光景なのだと思わずにはいられない。これら全ての人が、トリックを成立させる要因なのだ。

鉄とロープに託されたイメージ

 こうしてトリックとそれを取り巻く人々を描写してきた本作の眼差しはしかし、休憩前すなわち劇の前半の最後、トリックを行った人々へと移る。語られるのは、悪名高き犯罪部族法についてだ。イギリスはインド直接統治後の1871年、この法でもって、非定住生活を送る150の部族を犯罪者の集団として取り締まり、移動を制限した。ヴェンカテーシュワランは、2017年(シアターコモンズでは19年)初演の作品、その名もずばり『犯罪部族法』でこのことを扱ったが、本作ではこの法によって「減少する舞台数と観客を前に トリックの秘密を知る者は生き残りをかけて 他の生活の糧を 見つけることを余儀なくされた」「蛇使い 祈祷師 小商人に転向した」「トリックの秘密を死守した者は 最後の抵抗手段として ロープを登って姿を消した」と俳優たちが語る。羽衣伝説の天女やかぐや姫、20世紀に入ってからは風船おじさん(!)など、天空のどこかに消えた者は、かえって私たちの心にいつまでも刻まれるものだ。こうして、ロープを登ったまま下りてこなかったマジシャンと、完成しないままになったトリックは、寓話のような形で、犯罪部族とされた人々の運命に重ねられる。帝国主義の下、インドは2つの世界大戦に巻き込まれ、独立後の1952年に犯罪部族法が撤廃されてからも、差別と排除の構造は続いていると聞く。
 ヴェンカテーシュワランは劇の後半で物語を、南インドのカルナータカ州南部の遊牧民に伝わるマンテスワーミー叙事詩の要素を取り入れてさらに発展させる。この叙事詩では、聖人マンテスワーミーが、裕福で強大なパンチャーラ族の独占する鉄の技術を得るため弟子シッダッパを遣わし、パンチャーラが与える数々の試練に打ち勝って鉄を得たシッダッパを後継者に任命したうえで、自身は地下世界へ下りていく。ヴェンカテーシュワランの作品では、シッダッパがインディアン・ロープの少年に見立てられ、バラバラにされた少年の身体が幾度も元に戻っては鉄を求めるさまが語られる。そして最後は、天井から吊られた1本の鎖の「ロープ」(ここで劇の前半と後半のモチーフは一つになる)を登る俳優、そしてその上に一人、さらにもう一人と俳優が乗り、天上に向かっていく場面で、幕。それは、踏みつけられ排除され表舞台から消えてもどこからか現れる、強大な多数者に対する弱者・少数者の抵抗のイメージに見えた。

未来と過去、虚構と現実のあわいで

 つまり本作は、前半は流言や絵空事にも近そうな荒唐無稽なマジックの逸話、後半は古代の叙事詩と、タイプの違う2つの物語を繋げて構成されている。かたや天上、かたや地下と、共にここではない場所へと向かっていくのも特徴だ。それは「今」という地上に対する「未来」と「過去」という2つのベクトルを連想させる。どちらも、人間の想像力なくしては見通すことはできない。
 ここで、本作を観ている最中の筆者には幾度か、心のどこかで、トリックが実際に存在し、なんらかの形で眼の前で行われるかもしれないと期待する瞬間があったことを告白したい。程度の差はあれ、これは劇場においては決して珍しくない意見のはずである。なぜなら私たちがいる場所は、リーブラホールであると同時にインドの広場であり、目の前にいるのは俳優であり物売りや奇術師だからだ。観客は劇場の中で、常に現実と虚構のあわいに身を置き、アーティストの表現を媒介に、自らの想像力を駆使し、幻想の世界を味わう。つかのま、トリックの成立に参与するのが私たち観客の務めであり性(さが)なのだ。
 飛躍した物言いになるが、眼の前の出来事が幻想であると知りつつ真実として受け止めるという、自発的で自律的な想像力は、圧倒的にリアルな脅威が私たちの前に立ちはだかり、そのために日々の生活がいささかヴァーチャルになっている今こそ、必要なものなのかもしれない。今だけに拘泥せず、過去に立ち返り、未来を見つめること。眼の前の現実ばかりを見て嘆くのではなく、ひたすら現実から目を背けて逃避するのでもなく、虚構と現実を自在に行き来すること。こうした、複眼的な視点、姿勢こそが、辛い状況を生き延びる術なのではないか。そう考えれば、ヴェンカテーシュワランが描く抵抗は、私たち自身の闘いといえる。
 劇場が閉ざされる中、舞台芸術はインディアン・ロープ・トリックの奇術師や少年のように、息を潜めながら、ふたたび世に出る機会をうかがっている。静かで強かな抵抗は続く。

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髙橋彩子(たかはし・あやこ)
演劇・舞踊ライター。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材。『AERA』『エル・ジャポン』『ぴあ』『The Japan Times』『Time Out Tokyo』や、各種公演パンフレットなどに執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。また、バレエ専門ウェブメディア「バレエチャンネル」にてさまざまな舞台ジャンルを横断する新連載を近日スタート。
ブログ http://blog.goo.ne.jp/pluiedete

撮影:佐藤 駿

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