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シネマの起源を映すVR映画──ツァイ・ミンリャン『蘭若寺の住人』 評

金子 遊(批評家・映像作家)
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VR映画の体験

 2021年2月某日、六本木のANB TOKYOビルへいった。ツァイ・ミンリャンのVR映画『蘭若寺の住人』(2017年)は、一度に16人ずつしか鑑賞できないので、しばらくのあいだ待つことになった。エレベーターで6階にあがると、人数分のVRセットが用意してあり、係員の合図とともに上映をスタート。ここで気になったのは、各自がそれぞれヘッドセットで異なるコンピュータにつながれるのだが、作品の開映が同じタイミングではじまったことだ。
 ポストメディウム時代といわれる現代では、映画作品は「映像コンテンツ」とされ、映画館、テレビ、パソコン、スマホなど異なるプラットフォーム間をネットワークを通じて行き来する、幽霊的な物質の実体をもたない存在となった。そのような状況において、まだ「映画体験」といえるものがあるとすれば、それは暗闇のなかで大きなスクリーンを見つめ、そこから得られた反応を鑑賞者たちがたがいに交換しあうことにある。VR映画は、眼前で展開されるイメージをみなで同時に見るという意味では、映画体験が保持されている。しかし、VRセットで目と耳がふさがっていると、他の鑑賞者たちの反応が伝わってこないので、VR映画には映画体験の一部が欠落しているのではないかと感じた。
 ところが、『蘭若寺の住人』の冒頭のシーンの世界に送りこまれて数秒もすると、その強烈な体験によって、あらゆる疑念は吹き飛んでしまった。うす暗い廃墟のなかに居間があり、アンティーク調の家具にかこまれて、俳優のリー・カンションがソファに座っている。少しはなれたところに台所があり、ポットから湯気がでていて、ひとりの老女がいる。最初のうちはリーや老女の肌が、人工的なマチエールに感じられてとまどったが、段々と気にならなくなる。ダイアローグがないので本編を観ているあいだは、字幕の存在にわずらわされることなく映像と音声に集中できた。
 『蘭若寺の住人』の観客は、廃墟の部屋に置かれたカメラの視点から動くことはなく、同じ位置から上下左右など360度を見まわすことができる。VRカメラを支える三脚があったはずなのだが、その像はあとからコンピュータ処理で消されており、視点が宙空の一点に釘づけにされて浮いているような状態だ。最初の驚きは、自分の背後の壁も含めて、ツァイ・ミンリャンたちがつくりこんだロケセットを隅々まで観察できて、まるで撮影現場の見学にきたように感じたことだ。ほかのVR作品と比べて没入感は変わらないが、映像が実写であることで、「その場で生起するできごとに立ち会っている」という臨場感はほかに経験したことがないものだった。

画像3©︎シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿

『蘭若寺の住人』

 蘭若寺は、中国の清代に蒲松齢が書いた怪異ものの小説『聊齋志異』に登場する寺である。その短編集のうちの一編「聶小倩」は、青年が荒れ果てた蘭若寺という寺に泊まることになり、そこで女の幽霊と出会う物語になっている。それを原作にした香港映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(1987年)はつとに有名であろう。ツァイ・ミンリャンの『蘭若寺の住人』も、タイトルから、それが中国の古典をベースにした幽霊ものであることがひと目でわかる。聞くところによれば、もともとリー・カンションが実際に病気を患っており、長いあいだ体調の悪い状態がつづいていた。このVR映画では、彼が置かれた現実の状況をふまえ、廃墟のなかで暮らすリーがさまざまな霊的存在と同居しながら、次第に病が癒されていくさまを描いている。
 映画に登場する三人の女性は、監督の設定では幽霊ということだが、作品を鑑賞するだけでは、彼女たちがどのような人物なのか判断することはむずかしい。映画のメイキング映像やツァイ・ミンリャンのインタビュー動画によれば、最初にVRカメラなどを開発する台湾の会社から、VR映画を製作する話がもちこまれた。ツァイとリーは台北の郊外で一緒に暮らしていたので、自宅のすぐ近くにある廃墟で撮影することにした。そこに大道具や小道具をセットし、美術家たちの協力を得て、壁に紙を貼ったり、それを焼き焦げさせたりして、ツァイの好みの空間へとデザインした。そうやって、ロケセットである廃墟が美術的なオブジェになるほどにつくりこんでいった。
 そのようにいうと、これまでのツァイ・ミンリャンの映画と大きく変わらないようだが、VR映画鑑賞の最大の特徴は、ワンショットのなかで観客が能動的に視点を変えられるところにある。たとえば、母親の霊が道をゆっくりと歩く姿を廃墟から見下ろすロングテイク。それが持続するあいだ観客がまわりを見まわすと、自分が置かれた視点の背後に別の女が立っているのに気づいてギョッとする。このような演出には、観客がみずから発見や謎解きをできる楽しみがあり、VR映画の常套手段になっていくかもしれない。もうひとつ驚いたのは、小部屋に中年女性の霊が座るシーンだ。彼女に光をあてて撮影しているのだが、360度見まわしてもそこは完全なる密室である。ドアも窓も照明機具を設置するスペースもない密室に、俳優とカメラだけが閉じこめられている状態。このショットもコンピュータの処理で余計なものを消去して可能になったようだが、閉所恐怖症ではなくても軽いパニックをおぼえるほど強烈な映像体験だった。
 ツァイ・ミンリャンの『河』(1997年)や『楽日』(2003年)といった映画を観ている人間なら、ロングテイクによってその時空間における空気感やアンビエンスを感じさせる作風だと知っている。そのような意味では、観客にじっくりとひとつの空間を味わってもらえるVR映画に、もともと向いている作家だったといえる。VR映画は、時間が不可逆的に進んでいく面では従来の映画と変わらないが、一方で、自分が放りこまれた情景をいつどのように見るかは観客の自由にできる。ツァイたちがつくりあげた空間を能動的に観察できるという点では、『蘭若寺の住人』の鑑賞は、美術館やギャラリーにおいてインスタレーション作品を見る経験や、野外劇を観劇する体験に似ている。

画像3©HTC VIVE ORIGINALS, photo by Chang Jhong-Yuan

シネマの起源があらわに

 映画を撮ることの根源的な経験は、撮影対象に対してカメラをどこに置き(アングル)、どのレンズを使うか(画角)を決めることだ。おもしろいことに、VR映画のカメラでは後者のフレーミング行為がなく、前者のカメラ位置が「世界の見え方」を決定づける。それによって『蘭若寺の住人』では、リー・カンションが棲む廃墟の全貌が少しずつ可視化される。具体例をあげよう。①冒頭のショットでは不可視だった台所の一部が、中盤や後半のショットではカメラ位置が変わることで見えるようになる。②後半に台風の暴風雨が吹き荒れる場面があるが、室内にあったカメラが後続ショットで外のテラスにでると、風雨のサウンドスケイプががらりと変化し、まさに眼前の光景が一変する。③白い水槽のなかに裸のリーが座る場面で、ローアングルによって死角になっていた位置から、ヌッと鯉の精霊の女性が出現し、観客は度肝をぬかれる。

 『蘭若寺の住人』では、映画を映画たらしめる要素として、映像もさることながらサウンドデザインの力が大きい。圧巻なのは、やはり台風が到来して廃墟の部屋を水浸しにし、水槽のなかでリーが鯉の精霊と性的交合のような行為をする場面だろう。自宅近くの廃墟で撮影したので、人工的な風雨は一切つかわず、本当に台風が上陸したときに俳優と撮影クルーを集めて撮ったという。映画の音声トラックは、さまざまな声や効果音を組み合わせて虚構化することで、逆に本物らしさを創出するものだ。『蘭若寺の住人』では、風が外の竹林を揺らし、激しい雨が廃墟の壁や床に降りしきり、水槽のなかで絡みあう二者の身体が立てる物音が、経験したことのない臨場感で迫ってくる。VRによる没入感と相まって、個々のサウンドが波長となってじかに身体に伝わってくるようで、その感動でわたしの目から涙がこぼれる瞬間も何度かあった。

 同時に、『蘭若寺の住人』が映画の原理と異なることへのとまどいもあった。大きいのは編集面のちがいだ。映画では、ひとつのショットが撮られて、次に、時間も場所も異なる別のショットへと接続される。各ショットをつなぐことで虚構の時空間が生まれ、擬似的な運動のイメージが醸成されるのだ。そんな当たり前のことが、VR映画ではたいへん暴力的に感じられる。ひとつのショットに観客が深く没入するので、アクションカットのような複数カットによる運動イメージの創出がむずかしい。シーンが変わって、その場から引きはがされて別の場所に連れ去られることに慣れることができない。自然に見えるように編集がなされていても、かなり不自然に感じてしまう。今後のVR映画の展開でモンタージュは透明化されて、観客の気にならないようになるだろう。だが『蘭若寺の住人』では「異なる時空間で撮られたショット同士を接続している」という、映画の編集が本質的にもつ暴力性を、あえてあらわしているようにも思えた。ショットとショットをつなぐことは一体何なのかという、初期映画からの問いが再浮上しているのだ。

画像2©HTC VIVE ORIGINALS, photo by Chang Jhong-Yuan

VR映画とスローシネマ

 前述のとおり、ツァイ・ミンリャンとスタッフは、VRカメラの三脚や照明機材の存在をコンピュータ処理で消している。ライトに関しては、階段や出入り口をうまく利用しながら見えない位置に隠している場合もある。三脚の存在が抹消されることで、観客の視点は何もない宙空に浮いたままの状態に固定される。カメラがティルトしたりパンしたりするように、観客も首を360度動かせるが、その位置から移動することはできない。能動的に視線を動かしつつも、映像と音声を一方的に知覚し、そこで生じる世界に一切の介入ができない状態は、まさに「幽霊」のあり方にそっくりだ。もっといえば、劇場やVRシアターの椅子に縛りつけられている観客の知覚こそ、幽霊の存在そのものではないのか。
 オンラインでおこなわれたツァイ・ミンリャンのトークで、わたしは「VR映画にはできなくて映画にできることは何か」という質問をした。ツァイは「それはズームインだ」と答えた。これは、先にも書いた「VR映画には画角がない」ことに関わり、演出する映画監督にとっては看過できない問題だ。なぜなら、グリフィスの時代からクロースアップは、演出家が観客に見てほしいものを指定するときに使う、映画にとって根源的な手法であったからだ。つづけてツァイが「VR映画で使えなかった反動もあって、このすぐあとに、台湾の市井の人たちの顔をクロースアップばかりで撮った『あなたの顔』(2018年)を撮りました」といったことには深くうなずけた。
 ところで、『蘭若寺の住人』のひとつの場面がひどく感動的なものとして記憶に残っている。ずっと廃墟の屋内にいたリー・カンションが、亜熱帯の植物が繁茂する畑にでて、母親の霊がそばにたたずむなか、土を掘り起こし、植物を採取するショットである。そのとき、自分が本当に台湾島のどこかの畑にいて、リーが土を掘る音に耳をすませているような感覚をもった。パンデミックの影響でずっと島国に縛りつけられてきた身体が、VRのヘッドセットを通じてはあるが、幽霊のようにテレプレゼンスして、異国の地に降りたったように思えた夢のような瞬間であった……。
 以前、アピチャッポン・ウィーラセタクンがインタビューで、「夢をうまく表現するために、VRは不可欠な技術であり、将来的にはVRで作品をつくっていきたい」と発言をしていた。[1] ツァイ・ミンリャン、アピチャッポン、ラヴ・ディアスといった「スローシネマ」に分類される作家たちは、ゆったりと空間のアンビエンスを感覚させることができるVR映画と相性がよいだろう。120年以上前、リュミエール兄弟のシネマトグラフの登場によって、映画は「スクリーンに投影されて大勢で鑑賞するもの」だと定義された。しかし、VR映画はエジソンのキネトスコープのように、ひとりひとりが異なる装置を使って、めくるめくイメージの世界をのぞきこむ行為にさかのぼろうとしているのかもしれない。

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[1] 「アピチャッポン・ウィーラセタクン−−『フィーバー・ルーム』から」インタビュー・文=佐々木敦
https://jfac.jp/culture/features/f-ah-tpam-apichatpong-weerasethakul/

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金子 遊(かねこ・ゆう)
批評家、映像作家。多摩美術大学美術学部准教授。著書に『映像の境域』(森話社)、『ドキュメンタリー映画術』(論創社)ほか。編著に『フィルムメーカーズ』(アーツアンドクラフツ)、『アピチャッポン・ウィーラーセタクン』(フィルムアート社)など。映画祭のプログラミングや映画雑誌の編集委員もつとめる。

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