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SNSなんてものをやっていると、薄っぺらい画面の向こうにいる人々の顔かたちがぼやけてわからないような感覚になる。

それはごく近しい人でも同じことで、冷たいディスプレイに流れる言葉と、その人の表情がどうにも結びつかない。

「(笑)」とか「www」とかつけてるけど、その文字を打ち込んでいるあなたの顔はたぶん、笑ってない。


今の「あなた」っていうのは、この文章を見ている、いわゆる「あなた」のことではないけど、「あなた」は「自分のことかも...」と思ったかもしれない。

文脈の曖昧な世界では、疑心暗鬼が闇に踊る。


そもそも、言葉にしたからといってそれが本当だとは限らないし、仮に事実を言っているとしても、言葉にしていることが物語の全てとも限らない。文章の世界では、いくらだって隠したいものを隠し、見せたいものだけを見せることができる。

これを「自由でいい。」と思う人もたぶんいるだろうけど、果たして本当にそうか。


今や近しい人との間ですら、実際に顔を合わせて話す時間よりも文字でお互いの考えをやりとりする時間の方が長い。

「親しいあの人なら、文字だけでも自分の気持ちをわかってくれる。」

いや、おそらく、そんなことはない。


あなたの気持ちはそのフォントで表現できるのか、その文字の大きさ、色で伝わるのか、言葉のイントネーションはどこにあるのか、すごく焦った早口なのかそれともゆっくりと穏やかな口調なのか。

どんな顔をしてその言葉を放つのか。


僕らは便利なコミュニケーションのツールを得て、より気軽に、より頻繁に、より緊密に言葉を交わすようにはなったけれど、その代償として、本当に大切な情報は切り捨てられ、誰かときちんと意思疎通をすることがひどく難しくなってしまった。

そのせいだろうか。目にする文字の向こう側の「あなた」の顔を想像していると、ひやりと冷たい印象を受けるときがある。会ってみると普通なのに。

やはり、顔の見えない2万通のやりとりをするよりも顔の見える10分の会話のほうがよっぽど伝わる、伝えられる。だから、関係に陰りが見えたときに会おうとする努力は大切なものになる。


誰しも、心の暗がりに住む鬼が育ち、何事もないところに何かを生み出すのを、ただただ待っていたいとは思わない。

それは僕だってそうだし、「あなた」だってきっとそうだろう。

「あなた」にとっての「誰か」に対しても、同じことが言える。


僕たちは、すこしばかり、この「便利」な現状に危機感を持ったほうが良いのかもしれない。



                    written by TANAKA Hiroyuki

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