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映画「三島由紀夫VS東大全共闘」プロダクションノート③

三島由紀夫はなぜ、東大全共闘との討論会参加を引き受けたのか。どのような思いで学生たちと向き合ったのだろうか。その真相を知るためには楯の会のメンバーたちを取材する必要があった。

「楯の会」の若者たちは今

楯の会のメンバーに話を聞くため、大澤祐樹は、一期生、二期生を中心に訪ね歩いた。報道局経済部の記者経験はあるが、楯の会は財務省の官僚とはまったく違う相手だ。

楯の会のメンバーは今も保守の立場を貫いている。結束も固いから、カメラの前で口を開こうとしない。大澤は、楯の会OBの会合があると聞きつければ顔を出し、映画化への協力を依頼した。

そんな中で、出会ったのが「楯の会」一期生の宮澤章友だった。宮澤は早稲田大学を卒業後、大手出版社で働いた経歴を持つ。同じマスメディア出身なら取材に応じてくれるのではないかという期待があった。しかし、宮澤も固かった。

「三島先生に関するインタビューは今までは全部お断りしてきました」

宮澤はいまも三島由紀夫を「先生」と呼んだ。

明さんnote③1なおし

繰り返しの説得を、宮澤は受け入れた。

「インタビューには応じます。僕は4年前に心臓動脈解離という大病に襲われちゃって、九分九厘死んじゃったんですよ。だから、死ぬための準備みたいなものですかね。取材に答えるのは、これが最初で最後です。だったら語れることは語っておこうかと思います」

歴史の真実を伝えたいという思いが一致した。宮澤は、三島との知られざる交流を映画の中で明かしている。


三島との別れの杯

次に訪ねたのは、やはり一期生の篠原裕だ。早稲田大学の民族派学生組織「日本学生同盟」で活動していた篠原は、楯の会初代学生長になる持丸博に声を掛けられて、最初の陸上自衛隊体験入隊に参加した。これが三島に師事するきっかけだった。

明さんnote③なおし2

篠原は東大全共闘との討論会の現場には行っていない。その理由について、こう語った。

「左翼が嫌いだから行きたくなかったんでしょうね。今でもそうです。そういう評論家がテレビに出てくると見ませんね、不愉快になりますのでチャンネルを変えるんです」

篠原は、初対面の三島から「すき焼き」をご馳走になった思い出を語った。

「三島先生にはじめてお会いしたのは馬込の家でした。夕方に伺ったのですが、すき焼きをご馳走になったのですが、それまで牛肉なんて食べたことないですから(笑)真っ赤なお肉でね。すき焼きといえば、肉や野菜を鍋で炒めて食べるイメージですが、そうじゃなくて肉だけだったんですよ。先生は卵をつけて美味しそうに食べるんですよ、ペロリペロリと。緊張していて、残念ながら味は覚えていないんですけど、その赤さだけは鮮明に覚えています」

篠原が最後に三島と食事をしたのは、1969年11月初旬、自決の20日前だった。「別れの杯」を交わした夜についてこう明かした。

「最後の自衛隊訓練のあと、御殿場別館という所で、50人近く参加していたと思います。めいめいのお膳が出されている中、先生が冒頭に『初期の目的は達成したから自衛隊の訓練は終わりにする』と言いました。で、そのうちに三島先生が唐獅子牡丹を歌われました。そのあと、森田さんら蹶起メンバー4人が、北海道旅行で覚えたという「知床旅情」を歌いました。最後に三島先生が、ひとりひとりの席の前に正座して『ご苦労だった』と言って酌をしてまわりました。私の目を見て『ご苦労だったな』って。先生はあまりお酒が強くないですから、顔真っ赤にして、返杯は受けなかったですけど。その時の様子ははっきり覚えています。それが『別れの杯』だとわかるのが、その20日後の11月25日でした」

篠原は20日後に起きる三島の自決を察知できていなかったことを悔やんでいた。「別れと知らずに受けた杯だった」と。こう語る篠原は、苦しげな表情を浮かべた。

歴史の証言者たちの言葉を引き出したのは豊島圭介監督だった。東京大学出身。母校を舞台にした映画を撮るという気負いも感じさせないかわりに、強烈な職人魂を持ち合わせている。                   彼はホラーなどを撮ってきた劇映画の監督だが、実はインタビューの名手だった。相手の言葉を引き出す間の取り方が絶妙だ。ゆったりとした時の流れを作り出し、過去の記憶と感情を引き出し、柔和な笑顔で受けとめた。

                          ④に続く


竹内明

竹内 明

1969年生まれ。神奈川県茅ヶ崎市出身。1991年にTBS入社。社会部、ニューヨーク特派員、政治部などを経て、ニュース番組「Nスタ」キャスターなどを務めた。国際諜報戦や外交問題に関する取材を続けている。