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遠目で見ていたBlack Lives Matterが身近に感じた

分かったようで分かっていない?

「Black Lives Matter」という言葉は日本にもだいぶ浸透したのではないか。奴隷制度に始まる根深い歴史があることや、今も消えない黒人差別があるということは、教科書でもニュースでも見聞きしたことがある人は多いだろう。ニューヨークに暮らして1年半あまりが過ぎ、私も“何となく”分かった気にはなっていた。だが、1000人単位の人がデモ行進をしながら、大きな声で「Black Lives Matter!」と叫ぶのを間近で見れば見るほど、「日本人の私には共感するのは難しい」と感じていた。

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6月19日の奴隷解放記念日にあわせて行われた抗議活動の取材中、
「Know Justice, Know Peace」というプラカードを掲げる女性を見つけた。後を追ってカメラのシャッターを切る。

デモのシュプレヒコールの一つに「No Justice, No Peace!!」というフレーズがある。直訳すると、「正義なくして、平和なし」という意味だ。女性が掲げたのは「No」の前後に「K」と「W」を黄色い文字で付け加えた、とても単純な造語。この単純さが私には心地よかった。

「正義を知ろう、平和を知ろう」

実感のない “黒人差別”

私は毎週日曜日、バスケットボールのゲームに参加している。学生から70歳のおじいちゃんまで、黒人も白人もアジア人も仲良くプレーをする。だらしないプレーをしたら「Get out of my a**!!(そこをどけ!)」と汚い言葉で怒られる。しかし、良いプレーをしたら「Good shot, man!!(よく決めた!)」とハイタッチをして共に喜ぶ。そこに人種は関係ない。

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ジョージ・フロイドさん。
5月25日、ミネソタ州ミネアポリスの路上で、8分46秒にわたって白人警察官は膝でフロイドさんの首を圧迫し続け、フロイドさんは動かなくなった。周囲の人は凶行を止めようとしているが、現場にいる警察官は聞く耳を持たない。

動画のリンクを送ってきた支局スタッフに「彼は死んだのか?」と尋ねた。
「そうだよ」と返事をもらったが、「2020年にもなってこんなことがあるのか」と動画の状況をすぐに理解ができなかった。“黒人差別”が日常生活の中で縁遠いものだったからこそ、今回の事件は信じられないものだった。

抗議活動で抱いたもどかしさ

事件の5日後には少なくとも140の都市に抗議活動が広がった。さらに、一部の暴徒化した集団が商店を襲って品を奪う略奪行為にも発展し、各地で州兵が投入される前代未聞の状況になった。

それでも私は、「(抗議活動の)ゴールが無いよな」とか、「コロナの流行はまだ収まっていないのに」とか、拡大し続ける抗議活動を冷めた目で見ようとしていた。「黒人差別を実感したことも無く、ひどい差別を受けたことのない日本人だから」という個人的な体験だけで、私自身と抗議活動を線引きしていた。

しかしながら、買い物帰りに遭遇したデモ参加者の姿や、フロイドさんの追悼集会に参加した人たちを間近に見ているうちにデモで繰り返し叫ばれるフレーズをすっかり覚えていた。

「Say his name?」「George Floyd!」
(彼の名前は?ジョージ・フロイド!)
「What do you want?」「Justice!!」 「When do you want it?」  「Now!!」(何が欲しい?正義だ!いつ欲しい?今だ!)

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デモに参加しているのは黒人だけではない。白人もヒスパニック系の人も、さらにはアジア系の人も「Black Lives Matter!」と叫んで行進している。
自分自身のためだけではなく、誰かのため、社会のためにエネルギーを持って行動できる人たちを前に、私自身はどう向き合っているのだろうか。
私も、大きな声で「Black Lives Matter!」と叫んで良いのだろうか。

現実を変えようと動いている抗議活動に対して、行動できることに“羨ましい”という気持ちが芽生えていた。

“Know”となら言えるかも

煮え切らない感情を抱えながら取材をしている最中に出会ったのが、冒頭の「Know Justice, Know Peace」というフレーズだった。

NoではなくKnowを用いた呼びかけは2014年にミズーリ州で起きたデモの際にも使われていた。(※2014年8月にミズーリ州ファーガソンで当時18歳のマイケル・ブラウンさんが警察官ともみ合いになった末に射殺された事件で、抗議活動は暴動や略奪に発展した。)

ミズーリ州に住むクリスチャンの女性が、抗議運動によって人々が傷つけあう状況を憂い、当時のブログにこう書いていた。

Peace and Justice is nowhere to be found in Ferguson.
(ファーガソンのどこにも平和と正義は無い)
※中略
Let us change our mindsets from “No Justice, No Peace,” to “Know Justice, Know Peace.” Doing so will bring about a change that is lasting and true.
「正義無くして平和無し」という考えから、「正義を知ろう、平和を知ろう」に変えましょう。そうすることで、永続的で真実の変化をもたらしてくれる

怒りのボルテージが高まる抗議活動では「No!」という強い言葉が飛び交うが、黒人差別の問題について、分かった“ふり”をしている私には、今のアメリカ社会で起きている問題に「No!と叫ぶ権利はない」と感じている。
でも私自身が「知りたい」と思うと同時に「日本の人にも知ってほしい」という気持ちで「Know」となら言えるかもしれない。
「自分は日本人だから・・・」と踏み込めなかったBlack Lives Matter運動への見方がちょっと変わった気がした。

“Black Lives Matter”は、当たり前の要求

Black Lives Matterが日本で「黒人の命は大切」と訳されていることに私は違和感を持っている。その違和感というのは、前後の文脈を見ずに「黒人の命は大切」という文章だけを見ると「ほかの人種の命だって大切だ」という反論が起きてしまうことに対するものだった。

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「All Lives Matter(すべての命は大切)」というスローガンの使用はアメリカではご法度だという。
このフレーズを使うのは「火事場で、火の付いた家(黒人)に水を配らず、火の付いていない家(白人)に水を配るようなもの」とニューヨーク・タイムズ紙が2016年の記事で例えている。
命や権利が脅かされていない白人が「All Lives Matter」と説くのは、「これまで黒人の命が虐げられ、“Matter”ではないという現実が無視され、“All”の中に黒人が未だに含まれていないという事実を見過ごしたもの」とされている。

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「Don’t Shoot!!(撃たないで!)」と、警察官に向かって両手を挙げて訴えるシーンをデモの中でよく見かける。これはアメリカの歴史で繰り返された「黒人の命が警察官によって簡単に奪われる事実」に抗議しているものだ。

日本の人の反応を見たくて、ツイッターの検索窓に「黒人の命は大切」と叩いてみると、「黒人だけ好待遇されたいのか?」という趣旨の投稿は少なくなかった。

違うんだ、そうじゃない。

アメリカでは今でも、職務質問をされた黒人が抵抗すると警察官に射殺される事件が起きる。フロイドさんのように抵抗できない状態になっても、窒息死するまで首を押さえつけられる。
Black Lives Matterは、「黒人にだって生きる権利はあるのだ」というのが私なりの解釈で、彼らは「生きる」という当たり前の権利を叫んでいる。
そして当たり前の権利を主張するのに、2020年になっても多くの人が懸命に訴えないといけない社会だということに気づくと途端に空しくなる。

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がっしりとお互いの腕を組む黒人の男女がデモの先頭を歩いていた。
社会を変えようという強い意志を感じたと同時に、これまで変わらなかった社会への切なさも感じた。
日本人だからと遠ざけていた私自身を省みながら、これまで解決してこなかった黒人差別問題と、いま「Black Lives Matter!」と叫ぶ意味について、私は「知ろう」と言ってみよう。


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ニューヨーク支局  市川正峻 カメラマン

2010年入社。報道局のカメラマンで3年、その後は社会部で警視庁の担当など、事件記者として5年過ごす。2018年10月からニューヨーク支局にカメラマンとして赴任。趣味はバスケットボールでNBAはブルックリン・ネッツのファン。