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【無料公開】真説佐山サトルノート round 24 京成立石のターザン山本


【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】


 新聞あるいは雑誌の人間(及び出身者)は、ネットメディアの編集者、ライターの質の低さを嘆く傾向がある。ぼくもその一人だ。
 時々、著者インタビューなどでぼくは取材を受けることがある。これまであまりの不勉強さに席を立ったことが二度ある。両方ネットメディアだった。
 紙媒体の取材では、稀に勉強不足だなと感じることはあっても、そこまでひどくはない。丁寧にぼくの著作を読み込んでいてくれ、その会話から新たな単行本の着想を得たこともある。
 そもそも日本の大学には実用的なジャーナリズムのコースがない。かつてぼくは早稲田大学でスポーツジャーナリズムの講座を担当していた。大教室で二百人以上を相手にした授業では、毎年、開始時期の四月は気が重かった。まずほとんどの学生は絶対的読書量が少ない。そして新聞、雑誌も読んでいない。ジャーナリズムの本質が「権力監視」であること。ビジネスや興行と密接な関係であるスポーツ・ジャーナリズムでさえ、被取材者との距離を常に考えなければならない。そういった初歩から教えなければならなかった。
 早稲田大学の学生はそれなりの受験勉強をくぐってきている〝地頭〟のある人間である。授業が進むにつれて、目の色や質問がどんどん変わっていくのを見るのは面白かった。
 同時に、新聞社や出版社、あるいはテレビ局の人間の苦労を改めて思い知った。いい意味でも悪い意味でもまっさらな人間を毎年、受け入れて、金と時間、労力を掛けて一人前に育ててきたのだ(その中には、ねじ曲がってしまう人間も出て来るだろう)。
 フリーランスの記者、データマンとして雑誌の編集部で仕事をはじめる人間も同じだ。彼らは経験ある担当編集者や先輩から、取材のやり方、原稿の書き方を現場で教わっていく。まっとうなジャーナリストや書き手になるのに近道はない。自分の足で歩き、人と会い、様々なことを感じ、本を読み、考える――そんな地味な道のりを歩むしかないのだ。雑誌編集部はこうした涵養の手間を当然のように引き受けてきたのだ。
 大手出版社の編集部には、博学で口うるさく、しかし懐に入れば優しい人間が沢山いた。文藝春秋の故・今村淳さんなどは地方の同人誌まで目を配っていて驚いた記憶がある。
 状況は好転しつつある兆しがあるものの、ほとんどのネットメディアにはそこまでの余裕はない。
 そもそも、ネットメディアの編集者というのは、ライターが書いた原稿を多少手直し、タイトルをつけて掲載することが仕事だと考えている。
 人間というのは間違いを指摘されることによって成長するものだ。導いてくれる人間がいなければ、自分の天井を突き破ることが出来ない。だから、事実確認の甘い、一瞬にして消えてしまう記事が濫造されている。また、そうした原稿を幾ら書いたとしても、書き手の力量が上がるはずもない。
 そう言い切れるのも、自分がそんな人間の一人だったからだ。
 小学館の週刊ポスト編集部時代のことだ。入社から数年経った頃、班異動で新しい班になったばかりの時期だったと思う。
 上司からワイド記事を作るように命じられた。ワイドとは、一頁程度の短い記事を、一つのテーマらしきものでまとめたものだ。その時々の話題となった人間を集めることもあれば、取材を進めていたが一つの企画にならなかった企画を入れ込むこともある。
 何の原稿だったのか、はっきり覚えていないが女子アナウンサーに関する芸能記事だった。その頃すでに週刊誌は、音楽事業者協会――音事協に入っている事務所と事を構えるのを避けつつあった。テレビ局のアナウンサーはタレントではないため、音事協には関係ない。フリーランスのアナウンサーの所属事務所も音事協に加盟していないところがほとんどだった。手の届きそうな美しさのアナウンサーは、週刊誌の読者にとって身近な存在であるということもあっただろう。女子アナウンサーはしばしば企画記事やワイドで取り上げられていた。はっきり言うと埋め草である。
 ぼくは自分の企画が通らなかったことで、ワイド記事を割り振られた。当然、面白くない。担当している記者と手短に打合せして、取材を任せることにした。出来上がった原稿は、そんなに悪いものではなかったと思う。
 入稿日、ぼくは別の企画を追って編集部にいなかった。すると上司がひどく怒っているという連絡が入った。芸能記者に話を聞いているだけで、一次情報源に当たっていないというのだ。つまり、フリーランスだった女子アナウンサーの事務所にインタビューを申し込んだのか、あるいは事務所の人間に話を聞いたのか、というのだ。
 短いワイドの記事でそこまでやる必要があるのかという言葉も口から出かかったが、肚の中に抑えた。正論だったからだ。
 記者から事務所に連絡を入れてもらい、その対応を原稿に入れることになった。
 週刊ポストはジャーナリズムの王道を行く雑誌ではない。これまで爪の甘い記事はこれまでも沢山あったはずだ。後から考えれば、上司は新しい班になったということで、一番年下のぼくを叱ることで周囲に安易な原稿を作るなと釘を刺したのだろう。
 それから〈安易に二次情報源に頼るな、可能な限り一次情報源に当たれ〉という教えは愚直に守っているつもりだ。
 それは「真説長州力」あるいは「真説佐山サトル」でも、当時を取材したことのあるメディアの人間の話も聞くが、あくまでも一次情報源の取材の参考に留めている。原稿に使う場合は、その必然性があるときに限る――。
 プロレスメディアが他と少々勝手が違うのは、報道陣が時にプロレスの内部に入り込み、〝プレーヤー〟を兼ねていることだ。そもそも取材対象者であるレスラーに〝取り入る〟ことが美徳とされる。被取材者と距離を取らねばならないというジャーナリズムの基本を考えたこともないだろう。
 その最たる人間が、週刊プロレスの元編集長だった、ターザン山本さんである——。
 山本さんとは『KAMINOGE』の井上崇宏編集長を通じて連絡をとり、彼の住む京成立石駅の改札で待ち合わせをすることになった。
 約束の夕方六時より少し早めに京成立石駅に着くと、赤いパンツに黄色のジャケット、自分の顔をあしらったオレンジ色のTシャツに野球帽という独特な格好をした長身の男が立っていた。ぼくが頭を下げると、「おうっ」と手を挙げた。
「勝さんの本、偶然完全読んだよ。いやぁー君はシュートだねぇー」
 偶然完全は勝新太郎さんを描いたぼくの著作である。シュートとは、被取材者に〝ガチ〟を仕掛けているという意味だろう。
 以前、後楽園ホールで挨拶をしたことはあったが、ほぼ初対面だった。取材に立ち会ってくれるという井上さんの到着を待ちながら、ぼくと山本さんは、ぎこちない会話をしばらく続けることになった。

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