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「パクチー」で「教育」を考える

先日、Twitterでこんなツイートをしたところ、様々な意見が寄せられた。

子どもを学校に通わせている親からは同情的な意見が多く、現役の教師の方からは擁護する意見や、学級通信を晒されることへの恐怖、反感が多かった。

その中で一番腑に落ちたリプライが以下の一連のツイート。

多くの人が自明視している部分にまで切り込んでくれていて、立場に紐づいた感情に足を取られることもなく、とても建設的で理性的な意見だと感じた。

このコメントで指摘されている通り、子どもに「やりたいこと」がまずあって、そのために「やるべきこと」が設定されるはずなのに、大人の側に一方的に「やらせたいこと」がまずあって、そこから設定された〈やるべきこと〉を「いかにやらせるか」についてのノウハウや取り組みが〈教育〉になってしまっている、という現状は、やはり子どもたちにとっては地獄であると私は思う。そりゃ不登校にもなる。

そんなことを考えていたら、ある情景を思い出した。

小学生時分のクラスメートのタカヤくんは、給食の牛乳がどうしても飲めなくて、昼休みに入ってもなかなか飲めなくて、最後は目をつぶって鼻をつまんで、まるで毒をあおるように牛乳を飲んでいた、というか、飲まされていた。

それが〈教育〉とダブって見えたのだ。

パクチーの喩え

そこで、ある喩えを思いついた。

現在の〈教育〉は、「パクチーを食べさせようとしている」と考えてみるのだ。牛乳でもいいが、なるべく「勉強」と同じように、「嫌なもの」と認識されることが多いパクチーの方がアナロジーとして分かりやすい。

そう考えてみると、くだんの学級通信もだいぶ趣が変わってくる。

食べたいものばかり食べるわけには行きません。今は「食べたいもの」ではなく「食べるべきもの」を食べる力を伸ばしたい。今回みんなは、好きでもないパクチーが食べられたのです。パクチーが食べられれば、ナンプラーだって食べられます。

こんな感じだろうか。こう書いてみると、いくつかの疑問が浮かぶ。ひとつずつ紐解いてみる。分からなくなったら「パクチー」を「勉強」に置き換えてみてほしい。ちなみに私は筋金入りのパクチストである。

パクチーは「食べるべきもの」か

パクチーを「食べるべき理由」は基本、説明されない。大抵「将来のため」というぼんやりした見通しとか「食べるべきだから食べるべき」という同語反復とか「子どもの仕事だ」という意味不明な決めつけとか「グローバル化の潮流、中でもアジアの時代をサバイブする上でパクチーを食べられるかどうかは最初の試金石」みたいな一見もっともらしい理屈とか、あるにはあるけど、どれも心許ないし怪しい。

そもそも既述のように、本来ならば「パクチー食べるべき」の前段階として、食べる本人による「○○やりたい」がないとおかしい。それは「タイに行きたい」でも「パクチーを克服したい」でも「羊肉の臭みを消したい」でも「カッコつけたい」でも、なんでもいい。

なのに、パクチーを食べる(食べさせられる)本人が「やりたいこと」について、何も聞かないまま、パクチーを「食べるべきもの」としていきなり提示する。そこにまず暴力的なものを感じる。

パクチーは「好きでもないもの」か

パクチーは、確かに苦手な人も多いが、好きな人は好きである。「食べたくないもの」である場合も多いが、「食べたいもの」であることも多い。

だがパクチーを「食べるべきもの」としてしまうと話が変わる。一方的に「食べるべきもの」として提示されるパクチーに対しては、「食べたい」という気持ちが失せる。「食べるべき」が「食べたい」を萎えさせる。

これは屁理屈だろうか。私は天邪鬼だろうか。

そうではない気がする。「食べるべき」が先に来たら、「食べたい」は不要になる。シノゴノ言わず「食べるべき」となれば、むしろ「食べたい」は邪魔だ。「食べたい」がないと「食べられない」ようでは、「食べるべき」に対応できないからだ。

一方的な「食べるべき」は、「食べたくない」に対してだけでなく、「食べたい」に対しても、暴力的に作用する。

〈食べたいもの〉とは

「食べるべきもの」が一方的に先に提示されると、〈食べたいもの〉も自動的に決めつけられる。駄菓子やカップ麺のような「身体に悪いもの」「幼稚なもの」「役に立たないもの」が〈食べたいもの〉として、侮りと決めつけとともに想定される。

「食べるべきもの」が先にあるせいで、本来あった様々な「食べたいもの」が見えなくなる。見えなくなって「なかったもの」にされる。

「食べたい」から「食べる」では困るのだ。それを認めてしまうと「食べたくない」から「食べない」を認めなきゃいけない。だから「食べるべき」だから「食べる」でいい。「食べるべき」は「食べたくない」の方がむしろ都合がいい。となれば、「食べたい」もまた「食べるべきでない」方が都合がよくなる。

「食べたい」の種をまくには

精神的にも身体的にも未発達で、知識や感覚も不足している子どもには「食べたい」がそもそもほとんどない。「食べたい」を養うためにこそ「食べるべき」をまず叩き込む必要がある。

というような理屈が大手を振ってまかり通っている。

将来的に「食べたいもの」が食べられるように、仕方なく「食べるべきもの」を食べさせているのである、という話らしい。

残念ながら同意できない。

なぜなら上述のように、「食べるべき」は「食べたい」を養うどころか、圧殺する方向にしか作用しないからだ。

では「食べたい」を養うにはどうすればいいのだろうか。私は、答えはいくつもないと思っている。

私のさしあたりの答えはこうだ。

「食べたくて食べている人が身近にいること」

これだけでいい。これ以上の「教育」はない。

そういう意味では、何かを食べたくて食べてさえいれば、「教育者」たりうる。逆にいうと、何ひとつ食べたくて食べておらず、言われた通り「食べるべき」に従ってのみ食べてきた人は、「教育」から最も遠い存在だと言える。

もちろん時間はかかる。

よしんばすぐ隣に食べたくて食べている「教育者」がいたからといって、すぐに「食べたい」が生まれるわけではない。「食べたい」の種が播かれるだけで、いつ芽が出るかは誰にも分からない。

そして「食べたくて食べる」なんて一人でできることはたかが知れてる以上、なるべく多くの「食べたくて食べる」教育者と触れてもらって、なるべく豊かな「食べたい」の種をまく以外にできることなんてない。

しかも「食べたい」は静的な、固定的なものではない。

季節や感情などなど、様々な要因によって、「食べたい」と「食べたくない」は流動的に変化する。だから誰も「教育者」として振る舞うことなんてできない。「食べたいものを食べる」とき、本人の意思とは関係なく「教育者」となってしまうだけだ。

「食べたい」の先に

「食べたい」が生まれたら、後は「食材をどう調達するか」「どう調理するか」「どんな皿にどう盛るか」「どんな場所で食べるか」など付随する学びへの欲が勝手に生まれる。更に芋づる式に、別の「食べたい」も生まれる。「パクチー」なら「羊肉」も「ナンプラー」も「スイートチリソース」も「フォー」も、芋づる式に食べたくなる。

「教育」ができることがあるとするならば、その欲が生まれることをなるべく邪魔しないこと。そして、その欲を満たすために、なるべく多様な道筋を示すこと。その中から、「食べたい」本人が「すべきこと」を選び取る。

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とまあ、「勉強」を「パクチー」に喩えてみたわけだが、〈教育者〉からは以下のような反論が予想される。

「勉強」というのは、全ての知識や技能のいわば基底をなすものであって、部分などでは決してない。だから今後の「やりたい」を実現するためにも「勉強」は「やるべき」である。決して「パクチー」などと類比的ではない。

なるほど。そう言いたい気持ちは理解できる。

だが、私が41年ほど生きてきた実感としては、こんな感じだ。

社会における「勉強」の大切さや有用性は、食生活における「パクチー」のそれと、同程度である。

「勉強」を貶めてるわけでも、「パクチー」を買いかぶってるわけでもなく、ただそのように感じる。

喩えによる過度な単純化によって、見えにくくなる対象があることは認めるけれど、喩えによって炙り出される対象も確かにあるので、今回の議論に対する私なりの整理として、「パクチー」という喩えを使ってみた。

〈教育〉だけではないけれど、暴力的なシステムに順応、加担してしまうと、その暴力性に気づけないだけでなく、その暴力性を訴える外部の声を潰しにかかってしまう。まるで自分を守るように、システムを守ってしまう。

ではどうすればいいのか。

という安易な代替案の要求ではなく、つぶさに現状を見つめて、それぞれができることをできる範囲でやっていくしかない。

少なくとも私は、なるべく「食べたくて食べる」を我慢しないように生きる。たとえ人前でも、「食べたくて食べる」を繰り返す。

私の今は、かつて目にした「食べたくて食べる」人が蒔いてくれた「食べたい」の種が発芽して実をつけた「結果」だと思っているし、私の「食べたくて食べる」が結果的に、「食べたい」の種を蒔くことにつながるから。

そうやって、種をつないでいく。

今のところ、それ以外には思いつかない。







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