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あみさんは、少し長めの旅に出た

5月10日、2歳前のイトを保育所に預け家に帰った途端に保育所から発熱の連絡が来て迎えに行く。38℃です、とどこか厄介払いできたような安堵の表情を浮かべる保育士に、とびきりの笑顔で応戦する。

保育所から発熱の連絡が来て迎えに行った今までと同じく、イトはいたって元気で、はしゃいでいる。

いくつかの予定を諦め、近々知人と始める畑へとイトを連れて向かう。炎天下の下クワを使って開墾作業に打ち込む。イトは子供用のスコップで土をいじっている。

10:41、父からメッセージが届く

緊急!あみさんが救急車で杏林ひ

日頃タイプミスのまるでない元敏腕サラリーマンの父にしては珍しい。事の緊急性を読み取る。あみさんとは私の母のことだ。

水泳中に胸が苦しくなって杏林病院に運ばれました。私は軽井沢で今ゴルフ中。すぐに帰るけれども電話番号教えて。

私の電話番号を伝えると

シリアスな状態です。大動脈乖離。今緊急手術の手配をしてます。また何かわかれば連絡します。

とメッセージが届いた途端に電話が鳴る。父だ。

軽井沢から新幹線で東京の三鷹まで戻るには早くても4時間はかかるため、木更津に住む私がまず病院へ向かうことに。ちなみに兄は国分寺、妹は茅ヶ崎だが、フリーランスですぐに動ける私に白羽の矢が立った。

畑仕事を中断してイトを連れて東京に向かう。アクアラインに乗ると右手前方にはうっすらとスカイツリーが見える。畑日和の抜けるような青空が眩しい。

入り口の変わった大井JCTのトラップに引っかかることもなく、自分の冷静さに静かに驚く。以前に何度か出口を間違えて池袋方面まで行ってしまった山手トンネルも、間違えずに初台出口の直後に右折して中央道に入ることができた。ところが大橋JCTは渋滞中。

車の心地よい振動がなくなったせいか、寝ていたイトが目を覚ます。キッキュ(クッキーの意)を欲しがるので、立て続けに何本か黒ごまスティックを食べさせる。

病院から電話が入る。今どこですか。大橋JCTで渋滞中です。12:10から緊急手術に入りますが8時間から10時間はかかりそうです。分かりました。どのくらいかかりそうですか。渋滞でちょっと分かりません。1時間半はかかりそうですね。

車内のデジタル時計の表示は11:55。さすがに1時間半までかからないだろう。渋滞中の車内で大動脈解離についてググる。無意識的に目は希望ある情報を探そうとするが、絶望寄りの情報に飲まれそうになりスマホを置く。発症した場合の致死率は6割、統計的には分が悪い。イトはぐすることもなくぼんやり車外を眺めている。

渋滞を抜け高井戸出口を降り杏林病院へと向かう。12時半には病院に到着し高度救命救急センターの入り口から入る。手術室近くの待合室に通され、しばらくして医師からの説明を受ける。手術に入ったが状況がよくない、血圧は60くらい、脈拍は40くらいで危険な状態が続いている。

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あみさんは、私の母だ。

母というのは私が生まれてからずっと母なので、母でないあみさんを私は知らない。

ずっと母だったあみさんについて客観的に何かを書くことはひどく難しい。なぜならその客観性の根拠となるような、母、女性、大人、仕事、生活、人生、社会などもろもろに関して基底をなす原体験はあみさん経由であって、循環参照に陥る危険が常につきまとう。

シルクフラワー(布花)作りの職人をしながら、英語教師として家で生徒を持ち、アンティークショップを営み、木工教室に通い子ども3人分の机と椅子とベッドを全て作り、私が成人してから私の影響で中国語を熱心に習い、靴作りの教室に通い私の靴を6足作り、その他にもボビンレース、宙吹きガラス、衣服の縫製、折り紙、など、常に頭と手と足を動かしている母が、私にとっては唯一の母であり、母とはそういうものだと何の違和感も感じずに育った。

どうやらあみさんはそこらへんの母とは違うらしいとある程度理解した現在でも、母の特異性を客観的に理解することはまあ不可能で、いわゆる「普通の母親」というのはフィクションでしかないとどこか思っている。どこの母も本当はこんな感じではないか、と。

還暦を過ぎても世界への興味は尽きず、ここ最近もインドネシアやネパールへ一人旅に行き、ICU(国際基督教大学)や杏林大学で聴講を始めるなど、衰えを感じさせることは全くなかった。

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手術中の患者の家族向けの待合室は10畳ほどの広さで、片側半分には長いソファーが向き合う形で2つ配置され、もう片側には1人がけのソファーがテーブルを囲む形で5つ並んでいる。角には大きめのテレビがある。

ふと見るとイトは年季の入ったソファーのほつけた部分をびりびりと破って遊んでいる。匂いがしたのでイトのオムツをソファーでこっそり替える。トイレにオムツ替えスペースがないから仕方ない。待合室で遊ぶのは限界と判断して、イトを散歩に連れ出す。

車通りのない病院敷地内はイトにとっては格好の遊び場で、嬉しそうに走り回っている。ヘルパーさんと散歩中のおばあさんが微笑ましげにイトを見ている。病院内のスタバでコーヒーとチョコスコーンを買い、外でイトと食べる。コーヒーを飲みたがるイトに、顔を顰めながら「ニガイよ」と伝える。「ニガイ?ニガイ?」とイトはむしろ興味津々だ。

兄と妹の夫が到着し、しばらくして父が到着した。妹とその娘とその後合流した。

待合室に通されて以降、続報がなにもないまま時間ばかりが過ぎていく。人間の心理とは面白いもので、希望的な情報に触れると本当に希望があるような気がしてくるから不思議だ。手術がうまく行ったら、という仮定の話を笑ってできる状況が続く。イトは同じくらいの妹の娘ニコと遊んでいる。

うちの嫁はんと上の子2人が到着したのが20時半ごろで、遅くなりそうだから私と父以外はいったん帰宅してもらうことに。

父は冷静に見える。

40年以上連れ添った伴侶が生死の境を彷徨っているという事実に圧倒されることはなく、むしろ緊急事態モードでシャンとしたように見える。何度かこういう頼もしさに救われたような記憶があるが、具体的には思い出せない。

父と2人で会話している間も、希望と絶望の間の振り子は大きく揺れ続ける。

12:10に始まり8時間から10時間かかると言われた手術だったが、日付が変わっても何の続報もない。穏やかな待合室とは対照的に、こうしている間にも戦場のような命の現場に思いを馳せようと試みるが、どうしてもうまくいかない。人間の想像力なんてたかが知れている。

2時を回ったあたりで疲れた表情を隠せない医師が飛び込んできた。

状況がよくない。手を尽くしたものの、現在は心臓マッサージでなんとか蘇生を試みているが。疲れ切っているにも関わらず、心臓の血管の構造を図解して丁寧に説明してくれる。ぼんやりと、絵が上手だなと思った。

先月一緒に高知を旅行し、わずか5日前には嫁子どもと一緒に茅ヶ崎で遊んでいたあみさんが、

もう帰らない。

波のように涙が行ったり来たりを繰り返し始める。最期に感謝の言葉を伝えられなかったことが悔やまれて、悔いという概念をようやく理解した。これが悔いか。

最期を看取る。

あみさんの手と目が見たかった。

あみさんの手は指の関節が隆起して歪な木の枝のようで、手の写真だけを見たら女性だとはわからないほどに、使い込んだ手だった。

その手で私を抱き上げ、私の頭を撫で、私に様々な手仕事を見せた。

その手がどうしても見たかった。でも見れなかった。

あみさんは少年のような澄んだ目をしていた。変化や異物を常に肯定する透き通ったその一対の目に、私はいつも見守られ、包まれてきた。

覗き込もうとしても、目はもう開かなかった。

発作のように泣いた。私にとって世界で一番大きな存在が、こんなにもあっけなくその世界から消えようとしていた。

「シンイはお持ちですか」

看護師の男性に尋ねられた。

神、意?

違った。寝衣だった。病院内のコンビニに売ってると言うので買いに走る。身に付けるものに妥協しなかったあみさんの最期に、陳腐な衣服を着せるのは忍びなかったが、仕方なかった。

病院地下の安置所へと運び、形だけの献花をした。アンティークに合うようなシックな布花を作っていたあみさんに、ダイソーで売ってそうなプラスチックの造花を献花するなんて、怒りでむしろ蘇生しやしないかと、ビクビクと希望した。

葬儀屋の手配を済ませ、翌日葬儀場で葬儀の日取りや内容を詰めた。棺も骨壷も花も火葬場も仕出しも遺影のフレームも、すべてグレード分けされてて、葬儀なのに浮世感満載だなぁとため息が出た。

14日に無宗教で家族だけで送った。

ごきげんギターでWhat a Wonderful Worldを歌った。ところどころ涙が喉につかえて、ごきげんに歌いきれなかった。あみさんは世界の美しさや豊かさや複雑さを誰よりも謳歌した人だった。

火葬場は工場のようで、次から次へと人が焼かれ、係員が読経するように喉仏の説明をした。チリトリとホウキの使い方が、ゴミを片付けるようで、どうがんばってもその骨をあみさんだと思うことはできないなと思った。

生痕化石という概念がある。

通常化石というと生体の遺物(骨とか殻とか繊維とか)を言うが、生痕化石は違う。生痕化石は生きた痕跡の化石で、具体的には足跡や糞や巣の化石のことで、場合によっては骨よりも多くの情報が得られるという。

手術前にあみさんが激痛で意識が遠のく中、最後に直筆でサインした手術の承諾書。

実家のダイニングテーブルに残っていた食べかけのチョコレート。

そして様々な手仕事に打ち込んでいたアトリエ。

そうした「生痕化石」にこそ私はあみさんが確かに生きた面影を見た。

そういえば妹の結婚式では家族みんなで「風になりたい」を歌ったのだった。

あみさんは風になって、いつもより少し長めの旅に出た。今ごろはきっと、生前行きたがってたコスタリカやマダガスカルのあたりを飄々と堪能しているに違いない。

あなたの子として生まれられたこと、あなたの生き方、立ち方を誰よりも間近で長いこと見せてもらえたこと、あなたの世界を肯定する眼差しを内面化できたこと。

私は恵まれていたと、今更ながら思う。

すでに十分に見守られている実感があるので、見守ってくださいとか言わない。あみさんは風になっても今までと同じように、好きなことを好きなように、好きな場所に好きなルートで、きっと楽しんでるでしょう。

あみさんは風になって、少し長めの旅に出た。

その旅先でまた運良く落ち合えたら、土産話を聞かせてほしい。





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