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キジの記事

桃太郎は、なんでまたよりによって「キジ」をお供にしたのだろうか。

東京生まれ東京育ちの私は、ずっと不思議で仕方がなかった。

「キジ」は、ハトやカラスやスズメのように身近に生息してないだけでなく、ダチョウやエミューやペンギンのように動物園にいるわけでもない。「キジ」は、もはや想像上の動物で、それはつまりペガサスとか麒麟とか鳳凰とかと同じカテゴリーの引き出しに入れられていて、

「想像上度合い」で言えば、キジは桃太郎や鬼と同程度だった。

金太郎のクマは動物園にいたし、浦島太郎のカメは水族館にいたから、キジの異質さは際立っていた。キジってなんなんだ。なんであえてのキジなんだ。

同じくお供になるイヌは家にいたし、サルは動物園のサル山にわんさかいたから、身近な動物(イヌとサル)と想像上の動物(キジと桃太郎)がキビダンゴというアイテムにより邂逅を果たし、奇跡のコラボパーティーを結成、いざ鬼退治へと繰り出す冒険活劇、という風に、私は「ももたろう」を解していた。

東京をはじめとするコンクリートジャングルの住人たちは、基本同じように感じているに違いない。都会人にとって、キジは「ももたろう」に登場する鳥以上でも以下でもない。「キジ=ももたろう」という等式も決して乱暴ではない。

ところが、である。

東京を離れて、田園地帯に住むようになって、事態は一変した。そして、私はとんでもない思い違いをしていたことに気づいた。

キジは、イヌほどではないにしろ、サルと同程度に身近な存在であった。

サルと同程度に、というのは、動物園のサル山で見慣れた「身近さ」などでは全然なくて、職場へ向かう車中から野生のサルを見かけても特に驚きもたじろぎもしない、という「身近さ」において同程度なわけで、

私は、キジを桃太郎や鬼と同列に並べていた自分を心から恥じた。ごめんよ、キジ。

都会の人には想像が難しいと思うけど、産卵の時期になると、ケンケンというけたたましい鳴き声がそこいらじゅうで響き、ちょいちょい車道を横切るキジを轢きそうになり、草刈り中に孵卵中のメスと鉢合わせして、卵が足元に残って途方に暮れる。

鬼の征伐を行う上でのキジの戦闘力に疑問を呈する意見も多いけど、実際にキジを目の当たりにすると、オスの雄々しい面構えだけで気圧されるし、地面をタカタカと走るスピードは想像を超えて早いし、いざとなれば低空に限り飛行も可能で、よしんば私が桃から生まれたとしても、手近なバディとしてキジに白羽の矢を立てる可能性は十分にある。トンビやタカといった猛禽類は戦闘力は確かに高そうだけど、パーティーとして旅をするには歩行能力が低すぎる。

都会の人にとっての「キジ」のような存在は、非常に多い。

私なんて、自分の名字に「田」がつくので「田んぼの田」と漢字を説明してたクセに、子が生まれて田園地帯に移住してくるまで、まともに田んぼを見たことがなかった。

「キジ」がももたろう限定の想像上の動物であったように、「田んぼ」は昔話や童謡限定の想像上の場所であった。私にとって「田んぼ」は、「ライ麦畑」や「ジャングル」と同程度の現実感しかなかった。いやほんとなんかごめんなさい。

そんな私も今では、友人と田んぼでコメ作りをしたり、キジの雄雌を見分けられるくらいなのだからわからないものだ。

逆に都会における「キジ」のような存在、つまり都会の人には日常の風景なのに、田舎の人にはフィクションと見なされていることもきっとあるんだろうけど、残念ながら私には見えない。

生には限りがあるから、全部とはいかないけれど、なるべく多くの「キジ」を限定解除できるような生き方ができたらと思ったりする。

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