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「無駄な経験なんてない」の真実性と欺瞞性

「無駄な経験なんてない」

40年間生きてきた私の偽らざる実感である。

つい先日も高知県土佐町の農家に子どもたちと滞在していた折、「マニュアル運転できる?」と聞かれ「はい、まぁ」と答えたら、なんと人生初のトラクターの運転をすることになった。

何も考えずに学生時代に取得したマニュアル免許と、米屋に勤めていた時のフォークリフトの経験が、思わぬとこで生きた。経験はいつも思わぬ場面で生きる。いや思わぬ場面で生きるモノを、便宜的に「経験」と呼んでいるだけか。

だが若い時分は「素因数分解なんて実生活の何の役に立つんですか」とか「漢文の書き下しができても就活には役立たないんですけど」とかそんな問いを私も投げつけていたわけで、周りの大人からいつも窘められていた。

「無駄な経験なんてない」

その言葉の意味を腹で理解できたのはつい最近のことだが、どうもこの言葉は発する人間によっては都合よく利用されてる気がしてきた。

それは人が嫌がる、場合によっては人を傷つける経験をさせる側の人間が、自らの良心の呵責を軽減するため、あるいは嫌がる人の心理的抵抗を緩和するための詭弁として、「無駄な経験なんてない」と連呼してる場面をよく見かけるせいだ。

製パンについて学べと聞いてはるばる日本まで来たのに、驚くほどの薄給で単純なライン作業のみにしか従事できない海外からの技能実習生。

「無駄な経験なんてない」

コンビニ営業時間のような働き方を強制され、心も身体も変調を来たす奴隷さながらの労働者たち。

「無駄な経験なんてない」

礼の角度やら行進の隊列やら校歌の斉唱やら、軍隊さながらの「教育」を押し付けられる小中学生たち。

「無駄な経験なんてない」

国の愚策のせいで戦地に送られる若者たち。

「無駄な経験なんてない」

「無駄な経験なんてない」は往々にして惰性と思考停止を誘発する。

自らの責任を放棄するため、自らの罪を放免するため、自らの良心を死守するため、今日もまるで格言か何かのように放たれる呪詛の言葉。

実感として自分の心の中で「無駄な経験なんてなかったな」と呟くのと、他者に対して居丈高に「無駄な経験なんてない」と諭すのは、全く意味合いが違う。

年を取るととかく格言めいた呪詛の言葉を投げつけがちだ。

そこでひとつ提案だ。

「無駄な経験なんてない」とか言われたら、具体的なエピソードを問い返してみよう。

「どんな経験がどのように生きたんですか?」

その答えが全く偶発的な結果論でしかないように聞こえたら、自ずとその人の「無駄な経験なんてない」は説得力を失う。

逆に面白いエピソードが出てきたら儲けものである。

分断より対話を。

閉鎖より開放を。

自戒を込めて。

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