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タクシー小話 11 「男の敗北の瞬間」

 小雨の降る深夜、六本木の小道で男女が抱き合っていた。
 こちらには女性の背中とその肩越しに男性の顔が見え、男性は女性の背中に回していた手を挙げた。
「一緒に帰ろう」
 目の前に停めると、男性がそう言った。
「いい、私歩いて帰れるから」
 女性は拒み、歩き出した。

「ほんと?ちかいの?」
 男性は呂律が回っていない。
「んてんしゅさん、まててくださいね」
 この一言で車内には酒の匂いが広がる。
「あめふってる、ふぉら、のって」
「大丈夫、近いから」
 女性は乗ろうとせず、パーカーのフードを被って歩き出した。
 年齢は男女ともに30代中盤といったところに見える。

 乗る乗らない問答が2,3度続いた挙句、男性が一人で乗ることになった。
 しかし、まだ諦めない。歩道を歩く女性と同じ方向に向かっているため、ペースを合わせるように言われ、並走しながら男性は窓から声を掛ける。
 また2,3度やり取りし、雨がいよいよ本降りになりだしたこともあって女性も乗ることになった。

 この男女は二人でお酒を飲んだ帰りらしい。
 飲みに行ったお店の話から始まり、明日の仕事の話になると女性はあと3時間ほどしか寝れる時間がないと言った。
 気遣いなのか、嘘にも思える丁寧な口調でNOを示している。
「お家行ってもいい?」
「え、だめ」
 しかし男性は諦めない。

「仕事は何時からなの?」
「10時」
 現在時刻、深夜3時前。寝れる時間との整合性は無いようにも思える。
「結構だいじょうぶじゃない?」
「でも準備もあるしそんなに寝れないから」
「だいじょうぶでしょ」
「いや、無理」
 男性は何の口説き文句もなく言葉を投げ続け、女性の口調は強くなる。

 車内の空気は張り詰めていく。
「運転手さん、あそこの二つ目の信号の手前で大丈夫です」
「もうつくの?行っていい?」
「いや、だめ」
「お願い」
「いやいや」
 女性は断り続け、最後のおねだりには半ば呆れたような反応を見せた。
 懇願虚しく、男性は一人帰路につくことになった。

 男性は車内で一人、悲壮感を漂わせている。
 最後の最後は、女性がお金を払おうとしたことに「いらない」と男らしさを見せていた。
 この次、男性の目的地へ向かおうとしたがまだ聞いていなかった。
 ばつが悪い。この状況で声を掛けなければならない。
 慎重に、慎重に。傷心している男性を刺激しないように、そっと、やさしく、声をかける。
「ホきゃくさま」
 力を抜いたことで発音までヌメっとしてしまった。
 危なく、この空気の中で笑いそうになった。

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