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社会性はどう身につけますか(Q&A?)


 最近、あちらこちらで同じフレーズを目にします。ホームスクールやいわゆる不登校など、学校社会に積極的に参加していないこどもたちに「社会性はどのように備わっていくのか」という疑問の声です。昔も今も変わらず、特に関心の高いことのようですね。
 私なりの「社会性」にまつわる想いを書いてみようかな。

その前に、我が家の紹介をします。

 kokageこと私は4人の我が子たちと暮らしています。
 こどもたちは2020年10月現在、上から20歳・18歳・17歳・13歳で、私は40代後半。26歳の時に母になりました。
 当時、暮らしていた街では3年保育が主流のなか、第三子、3歳の家庭保育が我が家のホームスクールのはじまりです。入園(幼保)・入学(小中学校)を全員が体験含め、数日から数か月、数年間の経験をしていますが、それぞれ8歳から、6歳から、そして0歳からホームスクール暮らしです。つまり学校生活の経験があるのは第1子くらいで、他の3人はほとんどありません。全くないわけではありませんが。

 ホームスクールにはいくつかスタイルがありまして、我が家はkokageホームページで解説しているところのアンスクーリングにあたります。ホームスクーリング・スタイルから始めたものの、こどもたちの「今この瞬間に反応する」毎日を過ごしているうちにおのずとアンスクーリング・スタイルに移行する家庭は多いと思います。我が家もちょっとだけそうでした。
 短く表現すると「アンスクーリングは、カリキュラム無し、時間割無しのホームスクール」です。こどもたちの興味関心にいちはやくアンテナをはりめぐらせ、反応し、刺激を作る…という過程を繰り返していくので、親がこどもを観察している時間は濃密であったと思います。それ以上に、子もまた親の観察をしていたことだろうとも思いますけれども。

 私が幼児教育教材に携わっていた経験もあって、第1子誕生からモンテッソーリ『ママ、ひとりでするのを手伝ってね』の理念を大切に、日々の暮らしの環境を整えていました。

 学校教育と一切離れ、普通教育に自由教育(オルタナティブ教育)を選び、歩んできた家庭。我が家はそんな家庭です。(学校教育とは離れていますが、学校と断絶したわけではありませんよ。先生方は教育を語ることができる同志です。)

 こどもたちが成長していく姿から、いくども思いました。

 これが・・・本来の、人が成長していく道筋なんだ、と。

 赤ん坊の首が据わり、寝返りを打ち、お座りができ、ハイハイができて…というごく自然な身体の成長の道のり。それがそのままその先へとごく自然に進んでいきます。身体とは「体と心」の両方をさすものだと考えます。
 教えられることなく、人は、能力を次々と獲得していく様を、ありありと見せつけられました。

 さて、そんな私が、こどもたちの姿を通して思う【社会性】について、思うことなどを書いていこうと思います。




社会性は家庭で、すでに備わっている

 まず初めに、《社会性》と《社会化》と《社交性》を混同しないことです。

  他者を認識することができている時点ですでに「社会性」は備わっていると感じます。

 最初にそれを発揮すると感じるのは、赤ん坊の「人見知り」です。 それは自分の手足をひとつひとつ認識していく仕草(手をジッとみつめたり、足をなめたりする行動)に始まり、他者を認識し、「自分と違う存在」を知ることに移行してきた一連の流れです。そして乳幼児ながら「からだ全体を使って気持ちを伝える」ことで、自分の気持ちを外に発しますね。そうして意思疎通を図ることをも身につけます。やがて伝えたいことを、それと同時に自分の表現から意思を「言葉に変換する」誰かの呼応があって、言葉を獲得していきます。なんどもなんども繰り返される呼応が、的確な言葉をいちはやく照合する手助けになっています。

 ”気持ちを外に出す”。この仕草がとても小さくて汲み取ってもらうことが難しい子もいるでしょうね。でも「まったくちょびっとも無い」ことはないと思っています。そして、その表現方法はひとりひとり個性的であることも当然のことです。

 私は「赤ん坊をあやす」ことは非常に苦手です。だから「あやし上手になる」はあきらめていいと実感してます。大丈夫です。まだ言葉になっていない喃語なり仕草なりを「言葉に変換してあげる」を繰り返すだけでいいんですよね。赤ちゃん言葉はいらないし、ものすごい高いテンションもまぁいらないかなって。赤ん坊に向けた「声色」はそれなりにちょっといるかな。


 人が自我を持つようになる過程で、すでに「社会性」は備わっている、と私は感じています。こわごわと抱っこして、緊張した面持ちを見せる相手には「泣いて」しまうことも、抱き方に安定感があって、安心していられる相手にすやすやと眠ってしまえることも、「社会性の芽」だと思えるのです。

 《社会を育くむ》の観点で考えるならば、重要なことはこの「社会性の芽」を摘み取らないことに尽きると考えています。
 「社会性の芽を摘む」とはなにか。

 例えば、あからさまなことであれば、意思疎通を図ろうとする仕草(行動・アクション)に、一切反応しないことです。無反応であることです。その次に、間違った反応をすることです。喜びの気持ちは喜びが表現され、怒りやとまどいなど、それぞれの感情は、なにかしらの形で表に現れています。たとえ小さな反応であっても、それがその人にとっての「表現」なのであれば、伝達は確かにおこなわれているのです。それを受信する感受性は確かに必要ではありますが、一緒に居る時間が長いほどに培われていく類のものではありませんか?いわゆる「ツーカー」とか、「阿吽の呼吸」みたいなことですよね。親しい仲ほどそれが深まるものなのでしょう。


「社会化」することのメリットとデメリット
 

 属する社会集団の秩序を把握し、それに従うことが「社会化」です。
 従わない意思を持つことは「社会性」のひとつです。

 こう対比すると伝わりやすいでしょうか。これは専門用語として説明しているわけではありません。体験と経験から「そうだ」と思える私のなかのひとつの解釈です。もっともこの解釈に「社会化」という言葉にあてはめることができたのは「社会化」という言葉を知ってからです。知識が言葉を紡いでくれるのですね。

 例えば、学校は学校社会とも言います。集団です。ひとつの社会を形成している社会集団です。そのなかでは学校生活が営まれています。
 そこに通うこどもたちはそれぞれ家庭に帰ります。そこではまた家庭それぞれに社会が形成されています。家族集団です。

 これよりも小さい単位は個人といいますね。個人集団とはいわないので(たぶん)、複数人になって初めて「集団」と呼べるんですね。しかも、おそらく3人の集団から「社会」ができあがります。2人では「社会」は成り立たないんですね。チームっぽいのですけれども、どうも「社会」がそのなかで形成されているとは、ちょっと違う感覚がします。作用は二人の間だけなので、常に「対(つい)」なんですよね。対峙しちゃう。
 社会は3人ならば、1:2 の関係に、流動性があります。誰が「1」で、誰と誰が「2」の関係になるかが常に状況により変動するんです。これがおもしろい。この流動性が在ることが「社会のはじまり」かなと個人的には思っています。

 4人キョウダイの我が家です。
 当たり前の話ですが、最初から4人だったわけではなく、〔一人っ子⇒ふたりキョウダイ(姉弟)⇒三人キョウダイ(姉弟弟)⇒4人キョウダイ(姉弟兄妹)〕と変遷があったわけです。

 一番大変だったのは「ふたりキョウダイ」の時でした。年齢差も関係すると思いますが、このとき2歳差。小さいうちは、ふたりにそれぞれ「1:1」になるんです。「1:1」と「1:1」なんですよ!常に!でも「1」は私一人二役になっちゃうのね?ものすごく大変な目の回る時期です。

 3人目が誕生すると、これが「1:1」と「2」とか、「1:2」と「1」と「1」とかできるんです。こうなると…断然、ラクになるんです。ただ「1:3」でまとめて意思疎通するのは、なかなか長いこと難しいことでした。誰か一人は絶対「耳にはいってない」し、「自分に向かって言っていると思ってない」ので、結局「1:1」✖3になるんですよー。(のち✖4になります…。)

 

 学校には学校の秩序と規律があります。それは決められたものであったり、おのずとルール化したものであったり、暗黙の了解であったりと、幾層にも重なっています。それらを構成員同士のやりとりを繰り返しながら、いわば「空気を読む」ことで理解し、会得していくのが通常です。
 どう行動すれば、「うまくやれる」といった行動様式を身につけるわけですね。
 これは家族集団のなかでも同じです。
 「2人」の関係でも、これは同じですね。相手がよろこぶ行動を取るということでいえば。

 そしてご想像通り、その行動様式を理解できていなかったり、うまく使えていなかったりすると、「立ち回りが下手」ということになり…、つまるところ排除の対象になりやすいのだと言えます。
 逆に言えば「立ち回り上手」だと波風立たず、自分の領域をそれなりに維持することが可能ということですよね。距離感がつかめているともいえると思います。

 「社会化」。
 つまりその社会の秩序と規則を理解し、適切な場面で使い分けていると自覚しうるのであれば、それを「使わない」行動を選ぶこともできます。
 社会化は、言い換えるとその属する社会集団の秩序と規則に従っている状態と言えるのかもしれません。だとすれば、それに「従わない」意思を持って行動することは「社会性を持っている」からこそだと思えます。

 社会性を持っていると、社会化している状態から一歩、離れることができる。

 そういうことだと、思うんですね。
 それは帰属集団の構成員に対して反旗を翻しているようでもあるし、帰属する社会の秩序を乱しているようでもあるし、規律を理解していないようにも見えるかもしれませんよね。

 そして、その動機は、社会化している状態を受け容れることができないということだと思います。そしてその理由はどんなものが考えられますか。

 我が家の場合は、「その社会性を持っているがゆえに、社会化している周囲の社会性の無さが受け入れられない」というのが答えのように私は思っています。
 「社会化」が過ぎると、その社会集団の秩序と規則が内面化し、「常識」になってしまいます。「常識」になるとは、「その社会集団において、正解の行動様式を取ること」が「当たり前」「礼儀」「マナー」「普通」といった言葉であらわされ、そうではない行動をされると「非常識」「普通じゃない」「変」「おかしい」「礼儀知らず」といったあたかも「無礼な人間である」と怪訝な目をむけるわけです。それは「内面化」しているために、「その社会集団において」という前提が見えなくなっているのです。「絶対ではない」「その社会集団のなかだけに通じること」という事実が見えなくなっています。この状態、すなわち「社会化が過ぎて、社会性を見失っている」状態を容認することが難しかったのです。

 例えば、あまりに真逆な文化様式に触れた時、やはり拒否反応はある程度生じます。「えっ!?」っていう驚愕ですよね。「そうなの?なんで!?」ってなりますよね。ちょっと違うなというくらいなら、「まぁ、そういうものなんだな」くらいで済みますが、真逆なので、なんだかちょっと自文化が間違っているような、否定されているような感情を勝手に生んでしまうのかもしれませんね。違いが大きすぎて、慣れないんですね。
 「違いが、その差が大きすぎる」っていうのがネックなんです。


 その感覚は、帰国子女が日本の学校で授業を受けた時に覚える違和感ととてもよく似ています。つまり、慣れないのは「学校という社会集団」ではないということですね。学校に行かない・行けないこどもたちの状態を「学校が合わない」とよく表現されますが、合わないのは学校ではなく、日本独特の学校教育文化ということもあるのではないかと思います。(日本に生まれ育っていながらにしても、そういうことはあるのでは、と。それに我が家の場合は、私が沖縄文化で育っているので、私には「日本人だ」っていうアイデンティティは薄いんですよ…。日本文化は大好きなのですが。日本語しかしゃべれないのに。ね。)


 内面化すれば、それはきっと「同一視する」状態まで簡単に到達します。強い仲間意識というものです。帰属集団に安心する心情とは、そういった仲間に「同化する」「認められる」といった一体感を持つことをいうのでしょうか。
 一体感を持つ感覚は、本能的であると思います。温かい布団にくるまれたような心地であって、「守られている」感覚にとても似ていて、幼児回帰に近いものがあるのかもしれないと、ふと思います。なかなか手放すのは苦労しそうです。「それしかない」と感じているなら、なおさらかもしれませんね。「他にはない」と思っていたら、それを無くすことは怖いはずですよね。「かけがえのない」という意味にもなりえますから。

 だいたい脳って、雑(ざつ)なんですよ。認識が。
 ざっくりすぎ。ものすごく。
 「似ている」と判別が難しいみたい。そう思いませんか。
 私は常々そう感じます。だから「似て非なる」ものを見極めることって、すごく重要で、とても大切だととても思っています。


社交性とコミュニケーション能力


 「社交性」は「コミュニケーション能力」と混同されやすいものです。「口達者」と「表現方法」ほどの違いだといえば理解されやすいでしょうか。

 学校教育の学習課程を決定づける学習指導要領は、中央審議会が10年ごとに審議し、答申を出し、改訂されます。

参考リンク)

 その都度、評価方法の観点などが変化していきます。私が特に記憶に残っているのは、「挙手する」「発言する」などのアクティブな授業参加の評価が高くなったときです。もし、私が子どものころにそうであったなら、きっとものすごく低評価だったろうなぁと思ったからです。そうやって「身につけさせたいこと」は時代をおって少しずつ変わっています。
 しかしこれらの評価観点は、コミュニケーション能力を育てることがねらいだったのでしょうが、それは社交性なのではないか?と疑問に思いました。

 「社交性がある」とは、話しかけやすいイメージでしょうか。確かに話しかけやすい人は、よく話かけられるのですから、情報収集に富み、自分をアピールする機会にも恵まれます。目立ちますから。華があるのでしょうね。

 苦手な人。よくいますよね。性格が、であったりするかもしれませんし、言動が、というのも、雰囲気が、というのもあるかもしれません。その理由はさまざまで過去に嫌なことをされた人と似ている、とか、自分の信条にそぐわない行動をされる、とか。
 苦手は人に対してとる態度はどうでしょう。
 スルーできる人は、コミュニケーション能力が高いと思われませんか。逆にいちいちつっかかって、苦手だからという理由だけで絡んできたり、いつまでもネチネチと執拗に陰口を言うようなコミュケーション(反応するの意味で)はどこか誤っているように思えませんか。
 そう考えると、「コミュニケーション能力が高い」とは、コミュニケーションの方法が適切であるといえるのではありませんか。
 論破することがコミュニケーション能力の高さと言えるのでしょうか。
 そして、ここに社交性(発言力。会話力。)って関わりますか。
 対話とは、言葉を発することだけに限りませんね。
 いろいろ「?」が浮かんできます。

 「みんな仲良く」のスローガン。
 そんな学級目標も見慣れていましたよね。けれどもその解釈、受け止め方は、時代によってまた違っているようにも感じました。
「みんな仲良く」は、それが難しいからこその、悩みながらも、その目標を実現しようとする努力が大切だよ、という努力目標でした。けれども、我が子の時代には、どうもそうではなくて、「みんな仲良くするべき」「みんなが仲良くない状態があってはいけない」「仲良くしないのはダメ」といった解釈になっていて、とても窮屈に思いました。それこそ「なんで?」という感覚を持つくらいの大きな差です。

 親が持っているこういった感覚は、家庭で家族が持つ価値観を創ります。その価値観が、こども自身が帰属する社会集団の価値観とあまりにかけ離れていたら、どうなんでしょう。やはりなにかしらの影響はあると思います。

 年齢の発達に応じた観点を持つのであれば、低年齢児では多様な価値観はかえって混乱をもたらします。ゆえに、一貫した言動が家庭内にある環境は大切だと言われています。幼稚園や小学校でもまだ必要な環境だと言えるでしょう。大人の判断によっては中学生や高校生までも、ある程度の一貫した価値観念をもって児童生徒に接する姿勢は必要となる指導かと思われます。
 一貫した価値観念は、自己の形成を促します。アイデンテイティの創生です。その基礎土台の上に、多様性ある文化に接し、親しみ、自己と他者の違いを受け容れ、そのとき初めて多様性の受容が形成されるものと思うのです。まず「自分」というものがなければ、「他者」の存在を認識しがたいということです。自分がないうちに、他者にまぎれることは、「朱に交われば赤くなる」ことが容易です。そういうことです。染まりやすく、流されやすく、主軸を持ちにくいのではないか、ということです。


自己の「個」を知る、ゆえに他者の「個」を知る

 一生のうち、いったい何人・何百人・何万人の人生にあらゆるかたちですれ違うでしょうか。情報化社会です。書籍にも、映像にも、メディアにも、生み出される作品を通して、作者という人間像に触れる機会は多くあります。作者の体験を疑似体験するように、作品のなかの「生命」に触れる機会でもあります。

 その人生それぞれを想い、他者として自分と区別し、敬意を払う。

 社会性とはそういうものだと思います。


 「個」であると自覚があるほどに自己を探り、手繰り寄せるからこそ、他者にもまた他者自身の「個」を見出すことができる。

 そう考えているので、我が家のアンスクーリングは、「自分の感じ方」をとても大切にしてきたつもりです。自分はこう感じている。ならば自分ではない存在もまた感じている。だからどちらも互いに尊重するのは当然だ、と。導き出されます。


 多感な思春期という時期は、一度積み上げた基礎基盤のアイデンティティが見直され、再構築されるようなことが起こります。それまでの確かな自分の世界を客観視することができるようになります。そして「外の世界」を視ることができるため、自分の世界との違いが顕わになり、不安を覚えます。でもそれを打ち破らないと、自分の世界は広がならないことも知っているのです。
 これまで赤ん坊のころからずっと繰り返してきたのと同じように。
 新しい世界と、自分の知っている既知の世界とをいったりきたりして、踏み出していくのです。
 いわゆる思春期というのはそういう時期のことをいうのだと私は思っています。反抗期という言い方は、とても失礼です。それは親や大人との社会集団の中で「社会化」された状態から、さらに別のあるいは大きな社会集団への移行中であるからです。親や身近な大人との社会集団の中だけで通じていたあの「内面化した常識」が覆されたからと言って、それを「反抗期」といってとどめようとするのは、親は大人たちの支配が弱まるのを怖れるからではないでしょうか。心配なのでしょうが、ここでこそ、「言うことを聞きなさい!」ではなく、「あなたの思うようにしてみるといいよ。いざとなったらちゃんと助ける。安心していいよ」の気持ちは持っていたいものです。口に出せなくても。(口にしたほうがいいのかもしれませんけれども。たぶん。)

 他者の感じ方に対する違和感が強く、なかなか受け入れることが繊細で敏感な時期だってあります。違いが大きすぎて。

 でも「違いが大きい」とわかっているのですよね。あとはそれをどう受け容れていくか。受け容れたいと思うことも、そうすると決めることも、あるいは、今はそうしないとすることも、どれも本人の意思決定によらなければ、動き出すことは難しいと思うのです。だからマイペースでいいし、それぞれの発達成長段階は違っているものと受け止めたいです。

 比べなくていい。(比べるって誰と?同年代と?なぜ?)
 「個」の姿をみているのに、比べるものがどこに在るのでしょう。


家庭哲学とアンスクーリング

 家庭哲学。それは世界観ですし、価値観念ですし、信条です。
 それは、時代や社会にそぐわないことも、ままあるのだと思います。

 ですから、その信念に基づいて、日本の場合では「一条校では学べる環境が無い」と感じることはあるでしょう。人が人として成長していくうえで必要なことを、個々の能力に応じて学び習うことができる環境を整えるためには、既存の社会集団では合わないというのはごく自然なことです。
 その「合わなさ」をどれだけ調整するのかも、みな、違っています。どれだけ「できる」のかも。どれを優先するのかも。きっと違います。

 公教育制度は、日本の社会構造に組み込まれていますから、一条校を渡り歩き、新卒制度に乗り、社会人となるというルートは、日本社会の構造におさまる保障が高まります。

 観点を変えましょう。

 公教育制度の王道と異なる道を通るならば、日本の社会構造から疎外されやすいのであれば・・・

 それは公教育の役目を果たしていますか。


 アンスクーリングは、「学校ではない環境に身を置く」という意味では言葉通りのものです。けれど、アンスクーリング暮らしによって見えてくる人間本来の歩んでいく時間、それは、とても本質的で、どんな言葉で表現すればいちばん近いのか、まだわかりません。

 本質を求める 

 これこそがアンスクーリングの真骨頂だとも感じます。
 常に、求めているものが「本質」だからです。そこから密やかに漂う真実を掴みたいと願っているような気がします。求めてやまないものです。

 しかしこれは親である私の想いです。

 アンスクーリング暮らしで過ごしたこどもたち、私の家族は、また個々の生き方を歩いていくでしょう。なにかを決意する風でもなく、自分が進んでいくままに、であってほしいと、思います。


 なにものにもとらわれず、想いのままに。
 「生きる」を味わってほしい。

 生きている「今」しか、できないことだから。

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