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マスクを外す準備はできていますか?

 家族にちいさなお子さんはいらっしゃいますか?
 お子さんがマスクをつけて歩いている姿が多く見られますね。

 マスクを外す日が訪れます。
 その時、お子さんはマスクを外すことに、抵抗なく、不安なく、受けいれることができそうでしょうか。その必要な準備(レディネス)をちょっと考えてみたいなと思います。


「マスクをつけよう」と、いつ決めたか、覚えていますか?

 ある日から、マスクを着けることを家族で決めたと思います。理由があったから、それまでしていなかった行動をスタートさせました。

そのきっかけはなんだったか、思い出せますか?
「マスクをつける理由」をどのように説明しましたか?


 我が家はもう「ちいさな子」ではないので、マスクを着ける根拠を説明されれば理解できますし、必要になる場所かどうかも放送や案内などを目にしたり耳にすれば分かります。マスクの機能を理解し、マスクを着けない理由もあることも理解します。
 外すか着けるかの判断を任せることができます。

 そういった判断を自分ですることが難しい年齢のこどもには、マスクを着けさせないことが基本です。

こんなとき、どうしよう?
「息苦しくなった」
「熱い(暑い)」
「痒い」
「痛い」
「むずむずする」
「気持ち悪い」

「嫌な臭いがする」
「咳やくしゃみを激しくする人がそばにいる」
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”マスクを外せば(着ければ)、軽減・改善する” と 分かる
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マスクの着脱が 自分で できる

 ここまでの発達成長があり、その能力が獲得できている段階だ、と親が判断ができれば、まずは子ども用のマスクを預ける条件はクリアしていると考えることができます。(①)

 あるいは、マスクの着脱が自分でできなくても、必要に応じて常に介護・世話ができる保護者がそばで見守っていられる状況があるのであれば、「介護者・保護者の見守りが可能である」という条件付きで、子どもにマスクを着用させることは可能だ、と判断されたことでしょう。(②)


着脱の判断をまなぶ機会はできていましたか

 自分で着脱する判断を任されているのであれば、季節の変化や、屋外や屋内の環境、運動しているか否かの状況、周囲に居る人々の様子などから判断して、TPOに合わせ、なおかつ、自身の体調も考慮して、適切な着脱を身に着けています。
 ですから、いざ「マスクを外してもよい」と判断できたなら、その時から、マスクを着ける必要を感じることなく、マスクをしていないことに抵抗も無く、「ただ、マスクを外したよ」という感覚でスムーズに、これまでの習慣から移行することができると思います。
 「外す」も「着ける」も、自分の判断で決めることだと理解ができているからです。

 それは、自分で着脱が難しく、介護者・保護者がそれを代わりに手伝っている場合も同様です。適切な着脱の機会を経験しているわけですから、「今からは、マスクを着けなくても問題ない」状況なのだと、すんなりと理解ができるでしょう。

指示・命令だったかもしれない?

 嫌がる子、マスクを着けることに敏感な子、行動の変化にとまどう子、視覚状況の違いに戸惑う子。いろんなお子さんがいたはずです。幼い子であれば、自分の感性に素直でしょうから、「マスクを着ける」ことの違和感は非常に強かったのではないでしょうか。
 身につけさせたいどのような習慣も、あらゆる方法を駆使すれば可能です。

 違和感を覚えなくなるまで、毎日、それをする。
 諦めずに、慣れさせる。

 「そういうものだ」と理屈抜きに、条件反射的な行動としてルーティンにしてしまうことです。「納得する」「理解する」ことが難しいとき、それに時間をかけることが困難で急を要する時、それをしないと著しく本人にも周囲にも不利益が生じると客観的にも判断できるときなど、限定的な条件が重なります。(③)

 論外なのは「恫喝して、強制する」ことです。
 本人に「マスクをするよ」という断りをすることもなく、理由も説明せず、納得や承諾する余地も与えないことです。親がその行動は「よくない」と判断した時に、本人が「マスクを外す」行動を取ると、本人にとって不利益を被る状況を意図的に作り出すことで「従う」反応を条件付けすることです。これは【暴力による虐待】です。このような扱いをされたこどもは、「マスクとはなにか」の理解、「マスクを着脱する」決定とその状況判断を学ぶ機会をいっさい奪われているからです。(④)

マスクを外すことが難しくなるこども

 前述したように、自己決定を任されたこどもたち(①と②)は、おそらく「マスクを外す」毎日に抵抗なく移行することができると思います。
 ちょっと手間がかかりそうだな、と想像してしまうのが③や④のこどもたちです。

 ただし、③では、マスクの着脱は本人以外が指示するけれども、着脱が可能かどうかを”本人がどう感じているか”の様子に充分に配慮されています。ですから、本人のストレスに応じて、マスク着用が難しい時には「マスクを可能な限り、着用しないでよい場所に行く」「短い時間で済ませられるようにする」「マスクを着用しない理由を説明し、許可をもらう」などなど創意工夫がされています。
 「いつもの習慣がまた変わる」ことに、再びとまどいを覚えたり、同じ状況のように見えても「もう今はマスクを着ける必要はない」と納得するまで、あるいはそのきっかけを得るまでに時間や相当の工夫を要するという意味では、”スムーズにいく”は言えないかもしれません。でも、個人の尊厳を尊重したゆえのことですから大丈夫です。周りの人も安心して、見守ってほしいと思います。
 「元に戻る」というより、「また新しいことを初めから覚える」ようなことに近いので、そういった意味での「難しさ」はあると思います。でも、これは「マスク着脱」に限らず、社会生活、日常生活のあらゆる出来事と同様のことで、これまで幾度も繰り返してきたことと同じです。その辛抱強さと忍耐力、受容力は、世間にもっと讃えられてほしいくらいです。


 社会の課題として、考えなくてはいけないのが、④の「強制」を受けたこどもたちと、その周囲のおとなたちの関わりです。今まで以上に身近な被虐待児へのケアを感じることになるのではと思えてしかたがありません。
 「マスクをつけろ!」の暴力が、今度は「マスクをはずせ!いらない!持ってくるな!着けるな!」の暴力に晒される危険が潜んでいると想像せずにいられないからです。

 ショッピングモールで、お父さんが子どもに「手すりに触るな!」と反射的に命令口調でしかりつけていた場面が忘れられません。トイレのなかでは特にそういった普段のこどもへの声掛けの態度がなぜかあからさまになります。ほとんどが「禁止・命令」で済まされます。
・なぜ触ったらいけないのか
・触らない代わりにどうしたらよいのか
・触ったらどう対策したらよいのか
 そういったことはいっさい説明されず、「やめなさい!」「しなさい!」と親の言葉に考えるスキマなく、無言で即座に従うことが当たり前になっている様子なのでした。だって、「どうして?」と質問したところで返ってくる言葉はもう何度も聞かされてきたので、分かってしまうからです。「あたりまえでしょう!?」
「なんで、しないの?」
「なんで言うことをきかないの?」
「言っていることが、わからないの?」
「なんで、できないの?」
「いいから、言うとおりにしなさい」
酷いと、スマホに目をむけたままで返事もされません。


大人の言葉を信用できる人間になれるかの瀬戸際

 「マスクを外す」ことは特別なことではない、と申し上げておきます。

 「マスクを着ける」。その状況を引き起こした事態は、なんとも奇妙な騒ぎでしたが、それをきっかけに生じたこの「習慣」のようなものは、あらゆる「習慣」のうちのひとつだ、ということです。少なくとも、そのような側面からも見る必要があります。特に「こども」に関しては、そうです。

 私ももちろんその時代に生きていたわけではありませんが、戦時中の「教科書の黒塗り」を思い出してしまいました。ある日、突然、その日までは「OK」だったことが黒々と塗り替えられてしまう衝撃。そしてまたある日突然、それまでの「当然、従うべきこと・取るべき行動」とは真逆をするようと言い渡される。そんなショックを、どうかちいさなこどもたちが受けていませんように、受けませんように、と祈らずにいられません。

 理由も説明されず、理解や納得する時間も与えられず、ただ指示・命令に従うような状況があったのであれば、「一貫性が無い」と受け止められ、反抗心をより強く抱く心情におちいりやすいことは想像に難くありません。素直に、スムーズに、親子共にストレスなく、次の変化に適応していこうというのであれば、手間と時間を惜しんではいられないものです。その余裕がなければ、なおいっそうのストレスにさらされることになり、ますます関係と状況は悪化するといえます。

 手助けになることは、なんでしょうか。
 なにが、手助けになるでしょうか。

 【こどもの虐待】について、昨今、関心が高まってきています。非常に身近に在ることなんです。時間と手間にかける心のゆとりが失われるのは、その余裕が奪われていることも一因であることは間違いないはずです。

 「元に戻る」だけでは、足りません。時間は元通りになりません。常に、常に、特に幼いこどもの成長と発達スピードを考えれば、いつだって、新しい出来事がふりかかっているからです。1年半前にもっとおさなかったこどもたちは今、1年半よりもずっと、視ること・聞くことに長けていることでしょう。考えることに思慮深さが増していることでしょう。

 まなぶ機会、考える機会、知る機会、振り返る機会。
 言葉にならなかった気持ちを言葉にする機会。
きっと、そんな多くの機会が必要です。時間とゆとりが必要です。
それを見守るおとなたちの余裕、寛容さが必要です。そのための時間と環境が、おとなたちにもきっと必要です。
 

 どうか、心に寄り添っていくおとなたちが、そばに居てくれますように。

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。