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生きていたいよ

 こどもたちと毎日を過ごして20年が経とうとしています。最近、ふと考えます。もしもこうだったらどうなっていたのかなという実現しなかった今日のことをです。

「もしも」のターニングポイント

第1のターニングポイント 転居

 15歳の頃に引っ越をしました。それまで友人との間で語る私たちの近い未来は、普通高校に進学し、短大に入り、就職そして結婚、子育て。そういうものでした。女子で4年生大学を目指すことは珍しかったのです。しかし転居先の地方の「普通」は、県内の国立大学に入学することでした。そして就職は県内で安定の公務員。ただし公務員になるにはコネクションが必要。そういう社会でした。

第2のターニングポイント 就職

 「公務員にならない」という人生計画ではかなり大きな変更があったのです。なぜならコネクションが無いから。そして県外へ就職。離職してもそこに住んでいたかったのに、なぜか転居する運命を迎えました。

第3のターニングポイント 結婚と出産そして専業主婦

 「結婚は勢い」。まさにそういう年代でした。
 「案ずるより産むが易し」。それが通じる年代でした。
 現代はそうではないと感じます。そして最大のターニングポイントの子育てに突入するのです。

社会のあらゆる「普通」

 妊娠、検診、病院出産、始まる育児。保育園もしくは幼稚園、就学と保護者活動、小学校、中学校、高校、大学あるいは浪人を経て、就職、結婚、そして孫。標準的なルートはだれしも想像するまでもない「普通」のこととして想定されていることでしょう。「普通」ってこういうもの、という想定は、さほど大きくズレるものではないはずです。
 個別の事情を考えると、抱える事情やその背景は文字通り個々で違っています。その差異は、少しずつ社会の保障や支援で支えられていることになっています。支援や社会からこぼれおちるケースは「稀」だとみなされています。


ライフステージのバトン

 「普通」から外れませんか。なんだか他と違うと感じた事はありませんか。それでも、我が道を行くと心に決める瞬間があったのではないでしょうか。

妊娠、検診、病院出産、始まる育児。保育園もしくは幼稚園、就学と保護者活動、小学校、中学校、高校、大学あるいは浪人を経て、就職、結婚、そして孫

 そんなひとつひとつのライフステージで、たくさんの枝分かれが生じます。個別の枝分かれを文字にすると、チャート式に示すことができてしまうのでしょうか。ただ事実という点にのみ焦点をあてるとすれば、それは可能なのかもしれません。けれどもそこにひとりひとりの人生が積まれています。社会があまり大きくかわらずに過ごせた時代では、このライフステージごとのライフスタイルは、さほど大きな違いを見せずに、代々継承されてきました。
 今は、違います。
 枝分かれした多様な道筋は、社会の保障や支援からこぼれおちることが増え、社会の病理として、課題として、問題として、今、吹きこぼれています。
 経済の高度成長も、発展した技術革命も、きっかけに過ぎません。むしろそれらの変化をどのように受け止め、その未来をどう見据えてきたか、その問いかけがなされないままであったことが、現代社会の生きづらさを増やし続けてきたような気がするのです。


時間をください

 もしもあのとき、転居せずに、幼少期を過ごしたままの場所で今も生きていたなら、私は今とはまったく違う人生を歩いています。もしもあのとき、転居せずに、好きな土地で生き続けていたら、私は今とはまったく違う人生を歩いています。もしもあのとき結婚しなかったら、もしもあのとき…。やり直しのきかない道を、黙々と「普通」に沿って歩いてきました。

 今、こどもたちと過ごして20年近くになります。

 祖父母の時代には無かった病気や、社会環境。狭くなった世界。それでも変わらない人生のライフステージのモデル。社会に貢献できる人づくりが始まり、優秀な人材の輩出に追われた教育熱が高まり、ますます問題解決が求められる社会です。
 私たちは常に時間に追われています。時間に追われながら、本当にじっくりと考え、感じ、問いかけなければならないことには十分な時間を使うことができていません。日常に追われ、日々をやり過ごし、ごく普通のレールにのることで、問題の無い毎日に安心しようとしています。

安心して過ごしたい

 標準モデルから枝分かれした人間は、安心を奪われていることが多いものです。そのなかでつかんだ幸せは、自分らしく在ることだったり、ちいさな好きをみつけることであったりです。自分を見失わずにいられるほんの少しの時間でいいのです。
 するべきことに追われない安心をください。
 失うことに怯えないで良い安心をください。
 正しさをおしつけられない安心をください。
 成功を求められない安心をください。
 何者かであることを要求されない安心をください。
 幸せを望むことはいいのだと思える安心をください。

 なぜそれが奪われていると感じてしまうのでしょう。
 無力だからでしょうか。無知だからでしょうか。弱いからでしょうか。

 いいえ。それは、信頼を与えられていないからです。


社会の信用という基準値

 戸籍があること
 身分証明ができること
 仕事に就いていること
 収入があること
 税金を納めていること
 クレジットカードが作れること
 学歴や資格があること
 健常な肉体と精神を持っていること
 社会保障を受ける条件を証明できること

 信用という名の条件や枠づけに縛られて、必要なことを、必要な時に、手に入れられない仕組みがあります。評価や証明の数字に割り振られて、たったひとりの声すら、届かずに、かき消されてしまいます。

 たったひとりの声が誰にも届かない。

 なぜですか。


人間らしく生きたい

 毎日、日々は巡っています。季節は巡っています。風の強さも、空気の湿り気も、影の強さも、鳥の声も、毎日違っています。昨日できなかったことが、今日はできていたり、今日できていることが、明日からはできなかったりします。
 毎日、同じであるはずがありません。
 昨日おいしかった紅茶の味は、今日は美味しく感じなかったりします。ひとりで食べる食事が、うれしかったり、さみしかったりもします。

 怒ったり、泣いたり、悲しんだり、悔しんだり。
 笑ったり。
 落ち込んだり、隠れたり、閉じこもったり。
 歩いたり、走ったり。
 哀れんだり、嫉妬したり。

 どんな自分でも、「今の私」を感じることができる時間がほしいと思います。すべての人に、そんな時間が流れている社会だったらいいなと思います。


ここだけは譲らないと決めて

 多くの課題があって、それがあまりに大きいと思えるとき。ものごとは複雑なように見えます。

人間らしく生きたい
安心して過ごしたい
自分の意思で

 シンプルな願いは必ずかなえるとだけ備えていれば、大きく的外れなものは無いような気もするのです。

 誰にも支配されたくない。
 誰にもコントロールされたくない。

 私は私でいたい。最後の日まで。

 そんな社会で生きていたいです。

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。