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手伝ってもいいけど、奪ってはいけないよ

 画像は「みんなのギャラリー」からお借りしました。イメージにぴったりです。どうもありがとうございます。

 kokageの「ホームスクールをはじめよう」マガジンの仕上げ間近の頃から、しばらく子育てエッセイ風に書いてみようかなと思い立ちました。のんびり進めていこうと思います。kokageです。

 こどもって大人の手伝いがだいすきですよね。
なんだか大人扱いされている気分なのでしょうか。


 大人のすることを真似っ子しているのとは違って、ちゃんと「お手伝いする」という意識なんですが、たぶんそこにいたるまでに、大人の真似っ子をしているとき、大人がすかさず「あら、お手伝いしてくれるの。ありがとうねぇ」なんて洗脳してるんです(笑)。

《まねっこ面白いなぁ》→「お手伝いありがとう」と言われる→「これはお手伝いっていうんだ」と認識する。
    ↓↓↓
整理分析されて、こう解釈される。
    ↓↓↓
《お手伝いする》→《喜ばれる》→《こそばゆいけどうれしいな》

 視覚や聴覚などから脳へと情報はものすごく大量に常に流れ込んでくるのですが、それをピンポイントで取り込むのが「認識する」状態です。流れ込んでくる情報量と比べると大抵は、ほんのわずかな量に過ぎません。見ていたはずなのに覚えていないというのはそういうわけでしょう。
 認識された情報は、その範囲内で整理され、分析され、そして…解釈されて定着します。この定着は更新(アップデート)されますが、年齢を重ねるにつれ意識しないと更新はできませんし、更新しようという無意識意識がないと「気づく」こともできないようです。更新すべき情報にアクセスできない感じですよね。その点、乳幼児期やこども時代、向上心あふれる学生時代には新情報へのアクセスがどん欲だということになります。でも、これは年齢制限は無いと思うんですよ。年をとっても持ち続けている「ワクワク感」がそうなんじゃないかな。

 さて話を戻して、「お手伝い」です。
こどもが大人のしていることのお手伝いを言ってきたときには、大人は反射的に「こどもができること」を分別して渡します。その子のできることはなにかを想定して、選別するんですね。だから、この場合は仕事を進める権限を持っているのは大人です。 
 ところが、「お手伝いってたのしい!」が調子にのってきたころ、こどもは他のこどものお手伝いをして褒められようとし始めます。例えば同級生に、あるいは下のキョウダイに、小さな子のやっていることを手伝おうとする。この時、大人を手伝う場合との大きな違いは、仕事をする権限がどこにあるのかという分別です。そうです。おともだちやちいさい子の仕事を奪ってしまうんですね。なぜなら「自分にはできるから」。尚且つ、「お手伝いすると大人に褒めてもらえるから」「大人は喜んでくれるから」という情報が根拠なのだろうなと思います。
 ところがどっこい、おともだちからするとありがた迷惑なんていうことも。そりゃそうですよ。だって「自分がやりたかった」のですから。どんなに下手でも、どんなに遅くても、どんなに不格好でも。
 ところが「上手にできてえらいわね。すごいわね」なんて言われた記憶がよみがえってきます。するとその「優勢な評価」のほうが「良いこと」だと解釈している場合には、仕事を奪われたとは解釈せず、手伝ってもらったと認識するのでしょうね。周囲もその評価を持ってみるので「手伝ってもらってよかったわね。ありがとうは?」とかなんとか声をかけてしまったり、逆になんだか不機嫌でいると「上手にできたじゃないの。なにが不満なの?ありがとうは?」なんていさめたりなんてするのでしょうか。

 お手伝い

 その意味がわかっている子は、奪ったりしません。その仕事(やっていること)の主体者が誰であるかをわきまえています。そして、なにを手伝ってほしいのかという本人の気持ちを尊重します。あくまでその仕事は主体者のものなのだと知っているので、余計なことはしてはいけないと自分を抑制することができます。感情の抑制コントロールの重要性って、ここなんですね。感情コントロールって、抑圧するという意味ではありませんよね。ましてや素直になんでも言うことを聞くということでもないですね。聞くが「効く」になっちゃってますね、それは。主体が入れ違ってます。
 よく「こどもの主体性を尊重する」と言われますが、こどもの主体性と親や大人の主体性の区別をつけるためには、まず大人のほうが自分が主体であるとはなにかということをよく知っていないとわからないことですよね。こどもとはいえ自分とは他人だということと同時に、自分と他人の境界線を持っていることが大前提になるのですね。
 個別である。
 ひとりの人間である。
 個である。
 それが心の内側でなにかしらの解釈を持てているでしょうか。


 おや。大人たちが協力してなにかプロジェクトをしようとしています。
 チームAは、「ひとりではなにもできないけれど、みんなで集まればきっとできる。ひとりでは小さなことしかできないけれど、みんなでやればきっと大きなこともできる!」というスローガンで、リーダーが人を集めてスタートしました。
 チームBは、「ひとりでもできるよね。でも、誰かと一緒にやったらもっとおもしろくなりそうだよ。ひとりでもやれるよね。でも、誰かと一緒にやったらもっと成長できるよ!」とひとりが声掛けを始め、声掛けをされた人がまた声掛けをして、人が集まってきました。

 どちらが好きかな。直感で。
 今、あなたがいるのは、どちらかな。

 チームAのなかでは、誰かがなにかに取り組み始めました。個人プレーのようです。そのうち困難にぶつかりました。
「チームAだろう?チームでやろう。これはできる人に任せよう」
「え、いいの?ワタシにはできないからよかったよ。ありがとう。任せるね。ワタシはなにをしたらいい?」
 彼のアイディアは、チームAのものになり、チームAのメンバーで役割が割り当てられ、プロジェクトが進んでいきました。



 チームBでは、それぞれ各々になにかをやっています。
「ね、それこっちと合わせてみない?」「おぉ、それはおもしろそうだ。そしたらあっちのこれも、どう?」「いいね!」
 
「ね、これ難しいんだけどどうしたらいい?」「あぁ、これは、こうすると…」「おぉ、なるほど!わかった!やってみるよ。ありがとう!」

 みんなが輝くチームって、どんなだろう。
 


 こどもにかける言葉は、「どんな人になってほしいか」が先にあります。
 それぞれの個性を尊重して、認め合っていける社会の一員であってほしいと思います。「そんな社会では、どうあるべきか」のイメージがかける言葉を選びます。
 だからこどもと一緒に過ごすということは、初めから「社会を創る」ことでもあるのです。

 すごいよね。

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。