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教育ギークな私が教師にならない理由

 熱い。熱い学生の「教師にならない理由」noteを読んだので、触発されて書いてみることにしました。はい。肩の力を抜いて、どうぞお気軽に。

 kokageを知っているかたなら知っていただいていると思うのですが、これだけ教育ギークなのに、教育関係者ではないです。
 年月だけでいえば「教育」に関心を寄せていたのは小学生のときからなので、かれこれ40年近く「教育」に関心が高いままきているというのに。いや、一番古い記憶では、幼稚園で受けたIQテストから「こんなテストのやり方でIQは、はかれてないよ」と疑問に思っていたことを思い出しました。また私立幼稚園だったためか「ひらがなワーク」がありましたが「どうして同じ年なのに理解できる子と理解できない子がいるのか」という不思議を覚えた体験。私の「教育への疑問」はここから始まったのかもしれないし、そうではないかもしれません。

 ホームスクール哲学、その原点(その1)
 ホームスクール哲学 原点(その2)

 幼稚園に入る前から本を読みだしていた子どもだったせいか、小学生の間は読解力だけでほぼすべての教科はなんとかなってしまっていたし、小学校3年生の授業での強烈な印象もあって、学校の先生にあこがれるということは無かったと思います。
 3年生のとある授業とは。
 算数でした。円の面積を求める授業だったと思います。1日目に「3.14を使えば解ける」と習ったんですね。「ほぉ、そうなんだ」と理解したにも関わらず、私はそれから授業中ずっと「なぜ3.14なの?どこから出てきたの?」を考え続けていて、気づけば目の前にある確認の小テストを提出するのがクラスで最後のほうになりました。そして二日目。また確認のための小テストです。「3.14を使う」ことはわかっているので、今度は提出を忘れて遅れたりしないようにさっさと計算して提出して、それからまた続きを考えようって思ったんですね。すると…。
 なんと前の日ではあんなに最後に提出した子、つまり先生から見たら、ものすごく考えていて計算に苦戦していた子が次の日には最初に提出している!と解釈していたく感動してくださいました。
 あれから私は教師に褪めてしまったのかもしれません。そうじゃないかもしれません。

 また別の日に、絵画コンクールで賞をいただいたことがありました。さすがにうれしかったので、先生の「賞をもらった子は丸めてとめる輪ゴムを取りに来なさい」という声が聞こえなかったんです。クラスメートにつつかれて、賞状を片手に机に所狭しと並ぶクラスメートの頭をよけながら前に進みました。そのとき私もおさないながら謙虚さを持ち合わせていたので賞状は教室のみんなの目から見て裏にして持っていたのでした。すると先生から輪ゴムをもらって席に着くときには賞状はどの向きになっているか、わかりますよね。
 そこで先生からの一言です。「自慢するんじゃありません」。

 このときの私はまだ先生がエスパーではないことに気づいてはいませんでしたから、自分は自慢している悪い子なのだ…と思い込んだかもしれません。そうじゃないかもしれません。


 翌年の4年生の担任の先生はおじいさん先生でしたが、優しくて、とても大好きでした。なぜかクラスでは評価が二手にわかれましたが。しかし突然の転勤があり、クラスメートが別れにすすり泣く中、顔をあげて引き継ぐ臨時の先生の隣に立つ先生の顔を見て「先生が困ってる!」と感じ、ひとり泣き止んだのです。隣の席の男の子からは「泣かないの?」とまるで冷酷な女のように言われましたけどね。こどもにはわからない大人の事情を察して、「学校って、こどものことはどうでもいいんだ」って思ったかどうかは定かではありません。

 そして『ホームスクール哲学』二編にも書きましたが、学校の授業で行われる当時の平和学習は「悲惨さを訴える」内容であったこと、そして「無知な子どもに教育することで人間らしく成長させる」教育観とこども観に疑問を持ったことから、私は家庭教育に関心を強く抱いていくのでした。

 大学では教育社会学を学びたかったのですが、願いはかなわず法文学部社会学科へ。専攻は社会学専攻社会人類学コースをとりました。同時に総合大学でしたので、1年次から教育学部へいりびたり社会教育学の講義を受け、社会教育主事と学芸員の単位を取りました。途中、教員養成課程を受けることも可能でしたが、あまりの人気ぶり(当時1995年)と、当然ながら教育学部生優先のため断念。教育実習をする勇気も無いしね、と自分をなぐさめたものです。

 社会教育なら公務員だろうと思いきや、広範囲の公務員受験対策についていけず、また地方ならではの必須条件である「コネ」もなく、あきらめることに。また公民館で企画運営する側ではなくて、市民の側から公民館に期待することを知りたいと考えてもいました。就職先は家庭教育教材を扱う出版社。1年半の戸別訪問営業販売(一人で)という厳しい研修を終了したのは支社に15名の新卒のなかでは2名でした。減っていった事情は、営業の厳しさで辞めた者もいれば、事故に会い営業を続けることができなくて部署を変えた者、営業成績と資質から異動した者と様々でした。1年半の訪問営業はかなりの修行です。職業には貴賤があることを肌で感じましたし、他社の営業マンのクレームを浴びせられることもあれば、つばをはきかけられることもあったのです。「自分に適した方法」が見つかれば即座に成績に反映するという手ごたえとトップの感覚、そして「ダメなときはなにをやってもダメ」というどん底も経験しました。それらの経験はすべて今に活かされています。

 こどもを持って、学校教育とつきあうこと15年以上になります。まだ一番下が小学生ですし、ホームスクールでもありますから、保護者の立場で対応する域から出ることはありません。でも、もしも将来的に学校と家庭と地域の連携のなにかに携われる機会があればという期待はあります。ホームページはできる範囲での家庭と学校と地域社会に向けたメッセージです。

 「こどもさんの手が離れたら、フリースクールだとか、こどもを預かるなど、なにか始める気は無いのですか?」という質問に、私は「ありません」とはっきり答えています。なぜなら、やはり私は「なにかを教える教師」ではありえないし、家庭教育をこそ重視されてほしいともやはり思っているので、親からこどもを離して預かるという状況にはどうも耐えられそうにないのです。そして「親になったなら、せっかくなので、どんどん学んでもらいたい」気持ちはあるのですが、「親に学ばせる」とか「指導する」という気持ちもさらさら無いのです。
 一方、技術を伝えるインストラクターとして自宅教室は開いていました。今はお休み中です。再開する予定はまだありません。技術を伝えることと、生徒さんが学ばれて、気づきを得た瞬間を共有することはとてもしあわせなことでした。けれども小さな個人教室であること、宣伝できないこと、学びよりも資格取得を目的とする傾向が強くなってきたことで、続ける自信を無くしているところです。今は自営業などを継続している方々の声に少しずつまなびと気づきをいただきながら、元氣を回復中といったところでしょうか。

 

 教育に関心を高く持った人と出会いがあるなかで、「教育関係者」かそうでないかでジャッジをくだされたことの不快さも経験しました。そんな奇妙な人間の上下に分ける目にも関わりたくないなとも思っています。「教育者」の自負から、「より良い教育を目指す」のはとてもすばらしいことだと思うのですが、形にとらわれるばかりで、こどもを置いてけぼりにしている人の多いことにも、さみしさを覚えることが多いものでした。
 学習は学び習うこと。すべての人にその心はあります。なにを学びたいのかを知っているとき、学びたいことの方向を見定めているとき、師となる人との出会いが偶然や条件に頼ることなく、誰にでも約束されている社会であればいいのにと、とても思います。
 教育は教え育むこと。それこそは家庭の中にあり、逆説的なようですが「教える者・教えられる者が固定した上下関係」の無いところに在るように思えます。対等な人間であるとする関わり方を培う努力を、互いにできる信頼関係のなかにあると思っています。

 教師にならない、のか。なれない、のか。なんだか、わからなくなってしまいました。教師になろうと思ったそのときには、すでにもう時間が許されなくなったようにも思います。立派な教師になろう、立派な教師になれるようになったらそうしよう、と思ってしまったら、いつまでたっても教師にはなれないなとも思いました。教師をスーパーマンととらえる社会にその原因はあるように思います。どちらも人間。人間らしくかかわりあえる学校であれば、いろんな人が教師になり、生徒になり、そしてあらゆる瞬間で立場を入れ替わり、まなびあえるのかもしれません。

 ありがとうございました。

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