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過剰さ回避

どうもお久しぶりです。しばらくの間記事更新をサボっていました。今後はまたゆっくり映画とかの記事を挙げたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

んで、この重い腰を上げて今回なんで滞っていたnoteを更新しようと思い立ったか。最近じっくり読んでいた美術手帖編纂の現代アート史の本の通読が終わったのでまた違う本、実際は冒頭少し読みかけていた本なのですが、岡本太郎「岡本太郎の眼」を続きから読み始めた事から。

あと、岡本太郎の分筆に関して軽ーく文章書いているのでこちらもよろしくお願いしますー

読み始めてみると明らかに、すごく中途半端なところでしおりを挟んでいたらしい。それでも読み始めて直ぐに、あっ、となって衝動的にいまnote記事編集を始めて今こんな感じで殴り書きに近いことをしています。

その続きだった章のテーマは青春と自由について。以下引用。

自分一人では居たたまれない。そこで彼らが求めるのは、自分たちと同じような状況にあるモノだ。それらと群れて、気持ちが通じる所。――結局は暗黙のルールに従っているのだ。拘束されるのはキライだといいながら、彼らはグループに対してたいへん忠実だし、仲間の不文律には従順だ。――だからひどく一体になっていながら、何か相互に無責任だ。

岡本太郎の眼

これを読んで自分ならとっさに、宮台真司氏の若者の過剰さ回避について思い出して、やはりここでもそれが取り上げられるのか-思ってしまった。この岡本の文章は恐らく1970年前後に書かれたものと思うが、近年の若者について記述している宮台氏と同じ事を言っているのでまあそりゃまとめてnote書きたくなるよね、と。宮台真司は2年前の冬にYouTubeで出会ってから、その言説に共感しすこし彼の本を読んだりしている。

この記事には「イタさ回避」とあったり性愛とかの話であったりしますがほぼ筋は同じと思います。岡本太郎の本とかこの記事の内容とか保守的、ロマン主義的な感じはしますが、いま日本の少なくとも都市部の若者の頭には、何について考えるときもこのようなこのような「過剰さ回避」しか頭にないのではないかとも思えてしまいます。幸いなことにいま学問に過剰なことには寛容な環境にいるのでその部分には困っていませんが他の部分にはずっと違和感があります。どこまで相手にさらけ出しても許容されるのか、相互に過剰さを回避するなかで考えざるを得ません。その過程はウロボロスの輪のようになっていて絶望するばかりだ。ゴルディアスの結び目を断ち切る剣はあるのか。(それぞれググってね♡)

ただ最近では実際のリアルフィジカルなコミュニティでのインターネット上のやりとりではいくらか人によって「過剰さの回避」の回避になっているのかなあと思ったり、ただ一方の、「イタさ」を投げかけてもぬるりと相手が受け取らないだけなのか分かりませんが。

まあ、殴り書きで収集がつかなくなりそうなのでこの辺で強制終了します。


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