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【右脳思考と左脳思考】僕は死守すべき最終防衛ラインとして左脳思考を続けていきたい

最近、論理的に正しいことをすることが必ずしも正しくないという話を多方面でされるので、右脳思考という本を読んでみた。

ロジカル・シンキングが必ずしも功を奏すわけではないということは、デザイン・シンキングなるものを知ってからなんとなく感じ取っていた。しかし、その棲み分けに関しては結局あまり理解できていなかった。

それを、この『右脳思考』の本は整理する機会を与えてくれた。

簡単に言うと人間は正しさでは動かない。正しくてもモチベーションが湧かないと実際に物事が進みづらい。なので、関係者や意思決定者の感情に響くように如何に促していけるか、そのためには左脳(論理性)だけではなく、右脳で考えることも覚える必要がある。そんな感じの話である。

最近、そういう話をよく聞くようになったし、この不確実性の高い世界においては論理性が頭打ちだという考え方はとても理解できる(VUCAという表現をあちこちで見る)。

なので、社会人として、他者の感情に配慮できたほうが物事がうまくいく、つまるところ自分にとってもメリットがあることなのだと説かれるわけである。

しかし、少し腑に落ちなかった。よくよく考えてみると、この言説にはとある前提条件があるからではないかと仮説にたどり着いた。つまり、関係者が不正はしていないという性善説に基づいた前提があるのではないか、ということである。

つまり、労働搾取やパワハラ、セクハラなどが存在している場合、そんな相手の感情に配慮して物事を改善していくという平和的実行手段を選択することは果たして望ましいのだろうか。僕の疑問はこの点にあるように感じているのだ。

このことを考えていて、僕はアマルティア・センの「不正義の排除」の話を思い出した(昔の記憶なので議論の正確性には自信がない)。ジョン・ロールズやロバート・ノージックといった政治哲学者が「先験的制度尊重主義」と言われるように、理想的な正義を如何にして定義するかという試みが多くあった。

それに対して、アマルティア・センは比較評価アプローチという考え方を取る。これは、比較した結果、より望ましい社会状態を常に選んでいく、そのためには明らかな不正義を是正していくことにより、社会状態を改善していける、というものである。

つまり、論理的に理想とされる社会状況の定義を破棄したとも言える。これは、左脳思考により論理的に正しいものが導けるわけではない、という発想に似ているように見えた。

しかし、完全に論理の力を放棄したわけではない。明確な不正義(絶対的貧困、人権侵害など)を定義して、その削減に努めている。つまりここには、感情やその他の価値との折り合いなどは存在しない。絶対に守るべき前提条件、死守すべき最終防衛ラインなのである。

話を戻すと、右脳思考がすべての議論の範囲に適応できるわけではないのではないか、という疑問である。明確な不正義(契約違反とか法律違反とかそういうやつ)を最終防衛ラインとして守れている間においては、右脳思考と左脳思考を組み合わせることで会社や社会、世界を良くしていけると思う。

しかし、一度それが破られている、ないしは破られている可能性があるのであれば、徹底的に左脳思考で判断する必要があるように思う。

要するに、

・右脳思考が役に立つのは、性善説というか平和なときのみであり、
・最終防衛ラインが突破された緊急事態には早急に左脳思考を働かせる必要がある

のでは、ということである。

しかも、日本社会に置いては驚くほどに身近にそれが侵害されている状況がある。もはや恒常化して自虐ネタとして消費されていさえするように思う。緊急事態は思ったより身近な話だと思っている。

緊急時に即座に最終防衛ラインを主張できないと、平気で侵害される。そんな風にさえ思う。なぜなら、正しさを作っているのは国家でも社会でも会社でもなく、結局は個々人の判断に依拠しているからである。それが民主主義であり、組織や集団における個人の自由や権利を形作りものであるからだ。

そうした自分の権利や自由を闇雲にではなく緻密に論理的に主張していける、そんな行いもこのご時世には求められると思う。

ビジネスにおいて、右脳思考がとても大事だということが先程の本を読んでわかった気がする。

しかし、腑に落ちていなかった疑問が、社会の一個人として生きていくには、まだまだ左脳思考の重要性もあるのではないか、という結論を言語化できたので、とりあえずスッキリしました、というお話である。

もし最後までお付き合いくださった方がいたなら、とてもありがたい。何か意見等さればコメントくださるととても嬉しい。

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