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絶望のお隣のプレイフル

今年は「プレイフル(遊び・遊び心)ってなんだろう?」という問いをいろいろな人と対話しながら考えた一年でした。印象的な対話の機会はたくさんあるのですが、今日はその中のひとつである、ゼミ生(植月さん)との対話を紹介したいと思います。

それは「プレイフル」や、「うちのゼミ生ってなんでこのゼミに集まったんだろう?」という話を雑談的にしていたときです。そのときにこんな内容の話をしてくれました。

「わからないですが、みんなプレイフルってことに希望を持っているんじゃないかと思うんです。でも、みんなそれなりにうまくいかない経験とか、影の部分も経験しているんじゃないかなと。でも、諦めきれない最後の希望としてここにきている部分もあるんじゃないかと思うんです。」

この言葉は、ぼく自身も深く共感するところがあり、とても心に残っています。少しかっこよくいえば、

プレイフルとは、プレイフルな状態を夢見つつ、実際にそれがうまくいかない現実に打ちひしがれ、それでもやっぱりここに可能性があるんじゃないかと思う、最後の希望をのせたコンセプト

なのかなとも思っています。

プレイフルというと、明るく楽しいイメージがありますが

「どんなときも明るくいようぜ!」
「つらいこともポジティブに捉えようぜ!」

ってわけでもないのかなと思っています。やはりそんなに無邪気に明るくはいられないし、素直に夢を信じられるほど強くない部分もあります。

ぼくが考える「プレイフル」のお隣には、たくさんの絶望と諦めが一緒にいるかんじがあります。

ぼく自身、日々いろんなことに絶望もしているし、諦めかけています。ああ、もうだめだ。なんでこうなってるんだろう。そんなのできるわけないだろ。もう辞めたい。こんなことはよく思います。

でも最後の悪あがきとして、これだけは捨てないものがプレイフルなのかなと。どんな環境でもポジティブに捉えるみたいな考え方というより、マイナスなものも全部受け止めて、諦めの先に、笑えてくる(笑いたい)という想いをのせた概念なのかなと思っています。

もちろん、これは一般的にプレイフルってそういうものだと言いたいというより、あくまでぼくにとってのプレイフルなのかもしれませんけどね。

たぶん「プレイフルが大事」とか言っていると「何をそんな浮世離れしていることを言っているんだ」と言われるかもしれません。「世の中そういうもんじゃないんだよ」「そういうことを言える楽しい職場でいいですね」「そんなことを言っている余裕はない」という反論はすぐに思いつくし、そう思っている人もたくさんいるでしょう。

プレイフルというコンセプトは防御力が異常に弱く、潰そうとおもえば簡単に潰せるコンセプトなんですよね。

それでもプレイフルを諦めず、「世の中そういうもんじゃないことは知っているし、十分絶望したけど、せっかくならプレイフルでいきたいんだよね」といえる意志みたいなものがプレイフルなリーダーシップなのかなと最近考えています。

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