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空っぽの水槽

地下の駐車場から水族館の裏側--様々な装置やパイプ、水を貯めるタンクが覗けて見えるのを青藍はいつもチラリと見る。
じっくり見るのもいいが、そのチラリと見るのが、秘密を覗き見たような気がして楽しかった。
「お手軽だな」
蒼月が呆れた顔をしている。
「明日・明後日が臨時休館だけど何かあったの?」
「メンテナンス」
青藍の質問に簡潔すぎる答えが返ってきた。
「水槽空っぽ?」
以前、休館を必要とするメンテナンスの時は、水槽を空にするという話を聞いた。メンテナンスという言葉は水槽の掃除から装置の修繕までを指す。
「そうだな。裏の予備水槽に金魚と熱帯魚がいる」
小さな水族館である。熱帯魚の水槽が一番大きい。次はクラゲの水槽。クラゲの水槽のメンテナンスの時は、他の水族館にクラゲを預かってもらう。金魚の水槽は球形をしている特殊な物で、水族館のスタッフだけではなく、水槽を作ったメーカーのスタッフも手伝いに来る。
「そういえばオウムガイの水槽ってメンテナンスしたことあるの?」
「あるよ。定期的に清掃とチェック。だけど住人同様タフなんだよな」
蒼月がビルを改装して作った水族館は自分のために用意された物だというのは、祖父から聞いた。
でも、蒼月が自分でそれをいうまでは何も訊かないでおこうと青藍は思っている。
「空っぽの水槽、見に行くか?」
蒼月が青藍に言う。
「いいの?」
「今は作業してないからな」
青藍は滅多に通らないスタッフ専用の裏口から水族館の中に入る。
廊下の奥にスタッフ控え室がある。24時間体制で管理しているので今日の宿直当番が、今はその控え室で休憩をしている。
蒼月が、「関係者入口」とついている扉を開く。
「おや?細川さん、まだいらしたんですか?」
「館長こそ、こんな時間に」
と細川は目を丸くした。
「空っぽの水槽を見せに来ました」
「見せに?…あ」
細川は被っていた作業帽をサッと取ると、蒼月の隣に立つ青藍に頭を下げた。
「なんですか?細川さん」
「館長に改まる必要ないですから」
蒼月は肩をすくめる。
「だって、弟さんは特別なお客様なのでしょう?」
「そうそう。大事なお客様だから、オプションで空っぽの水槽を見せに来た」
ふたりのやり取りを聞きながら青藍は恥ずかしそうに俯いた。
「さあさあ、どうぞ。ゆっくり見て行ってください」
細川はそのまま機械室に繋がる通路を歩いて行った。
「細川さんのように詳しく説明はできないけど、まぁ、いいだろ?」
いつもより水族館の中は静かだった。いつもの水族館もあまり音はしない。それでも今の方がずっと静かだと青藍は思った。
いつもは水槽に照明が当たり、水族館は全体的に暗い。それが今は天井の照明がついている。青藍はふと後方を振り向く。そちらは暗い。
「明るいのはここだけだよ」
奥の方にあるクラゲやオウムガイの水槽は今回のメンテナンスには関係なかった。
入口から一番近い熱帯魚のエリア。天井近くまである大きな水槽は空っぽだった。水槽の上の方にいる魚を見ることができないほど大きな水槽だ。青藍は水槽ギリギリに立つと空の水槽を覗き込むようにして見上げた。それが空っぽなのはなんとも言えない不思議な感じがした。
クラゲの水槽の前にある金魚の水槽も空だと蒼月は言った。
「そっちも見るか?」
「ううん。いいよ。クラゲに悪いよ」
「あいつらは何も気にしないよ」
蒼月の言葉に青藍は笑った。
「お魚、上から入れるんだよね」
「先に水を入れるけれどね」
蒼月には青藍が何を考えているのかがわかった。水槽に落とされていく熱帯魚たち…。
「あ、そうだよね。そうか」
照れたように笑いながら、青藍は再び水槽の中を覗き見る。
「くっついて見てもいいよ。メンテナンスが終わったらきれいに磨くから」
青藍はそっと水槽のガラスに手をつけた。水が入っていなくても水槽はひんやりとしていた。
水が入っていると光の屈折で天井は見えない。水槽の枠より一回り小さい丸い線が見えた。おそらくあの線の内側が開閉するのだろう、と青藍は思った。
「すごいね」
規模としては小さくても水族館だ。
「明日の昼にでも、裏を見せてあげるよ。熱帯魚も金魚もちゃんといる」
「うん」
蒼月の方を振り向くと青藍は頷いた。
そしてそのまま水槽から離れた。
「もういいのか?」
「うん。やっぱりお魚がいた方が楽しい」
「そうだよな」
蒼月は笑う。
「でも、普段見れないのが見れてよかった」
「そう。それならよかった」
ふたりはもと来た通路を戻る。ふたりが扉の向こうに消えると同時に、空っぽの水槽の置かれてある部屋の照明がフッと消えた。