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歩道橋

小学生の頃は通学路に歩道橋があった。
中学校はわずか数百メートル西にあっただけなのに歩道橋を使うと遠回りになる。だから小学校とは全く違う通学路を通った。
高校も大学も歩道橋を通らずに行けた。
会社へは自家用車通勤。
結局、歩道橋は人生の中で6年間しか渡らなかった。

巨大な恐竜の化石のような歩道橋を目の前にしてそれを上るべきかどうか悩んでいる。
大きなT字路だが、ぐるりと迂回して歩くこともできる。
時間はある。
階段は決して急ではない。
なのに何故か躊躇している。
高いところが苦手だという意識はない。
階段だって職場の健康運動に則って普段は地下の駐車場から4階の職場まで上り降りしている。
ひょっとして自分は歩道橋が苦手なのではないか?
小学校の6年間しか使うことのなかった歩道橋。嫌な思い出でもあるのだろうか?
あたかも人待ちをしている風を装いながら、歩道橋の下に立つ。
別にそんなことをしなくてもいい。歩道はほとんど人が歩いていないし、車道を行く車はちっともこちらのことを気にしていない。
だけど、歩道橋の前で階段をただ見上げているのは滑稽だ。
知り合いに聞いたバードウォッチングのポイントはこの歩道橋を使って対角線上に道路を渡って、少し歩いた森林公園。
「啄木鳥がいるんだよ」
知り合いの家は森林公園の向こう側にあって時々木を突く音がするという。
スマホで撮った写真も見せてもらった。
一度この目で見てみたい。
高校に入って自然観察部に入った息子につられて自分も鳥や植物の観察を始めたばかりだった。
近所ばかり歩いていて、2kmほど離れた森林公園には行ったことがなかった。
「駐車場が随分と不親切なところにあるから、クボタさんの家からだったら歩いて行くのもいいと思うよ」
「森林公園までは僕らも歩くよ」
知り合いも息子も歩きを薦めた。
天気もいいし、自分も会社で階段の上り降りくらいしかしていないので歩くことに躊躇はなかった。
それなのに、何故か歩道橋を渡る気になれない。
少し先に横断歩道がある。それを渡って、少し戻ればいい?
「いやいや」
目の前のショートカットを無視するのももったいない。
結局、歩道橋を上り始めた。
階段の途中まで上る。なんてことはない。少し段が低いのが奇妙に脚にくる。
階段を上り切ると上の通路はL字型になっている。
自分はこのL字に沿って歩くだけでいいのに何故か一歩が踏み出せない。
そうだ。怖いのはここからだ。
小学1年の時、強風で被っていた帽子を飛ばされて泣いたのを思い出した。
幸い帽子は歩道を歩いていた学校の先生が拾ってくれて、歩道橋で膝をついて泣き崩れていた自分に持ってきてくれた。それでも泣き止むことができなくて、先生と手を繋いで登校したのを思い出した。
いや?それだけだろうか?
それだったら6年間、歩道橋をいやいやながらに通っていたとしたら、そんな嫌な思いを忘れているわけがない。
今日もキャップを被っているが、風はほとんどない。飛ばされる心配はないが、帽子を脱いで背負っていたリュックにつめた。
何が怖いのだろう?
そう思いながらも歩き始めた。
途中、おそらく車道の真ん中だろうというところに立って下を覗いた。
テレビドラマでしかみたことのないアングルだ。子どものことは覗いた記憶がない。
車が行き交う道をぼんやりと眺める。普段の自分はこの歩道橋の下を通っているのだと思うと不思議な気持ちになった。
L字型の角でふと排水口らしき穴を見つけた。上には格子の蓋がされていて、飛んできた針葉樹の枝が絡んでいた。
嫌な感じがした。
素通りしてもいいのに何故かそこで立ち止まった。
「行けよ。さっさと行けよ」
少年の自分の声がする。
何かを忘れている。
思い出さなくちゃいけないような、思い出してはいけないような…
あれは…
あれはなんだったんだろう?
「コウちゃん?クボタ?」
背後から声を掛けられた。
慌てて振り向くとそこには小中学校時代の幼馴染のスズハラがいた。
「久しぶり」
スズハラはにこやかに笑った。
「どうしたのこんなところで?」
お互いほぼ同時に同じことを口にした。
「俺さ、こっちに帰って来たんだよね」
そうだ。スズハラとは高校から分かれて、大学は県外に行ったはず。
「親父の病院、ぼちぼち継がなくちゃな、と思っていたら、区画整理で移転しなくちゃならないとかで、思い切って新しくそこの森林公園近くに建ててる最中でさ。工事の進捗見に行くんだ」
「俺は散歩。運動不足でさ。それこそ森林公園にでも行こうかと思って」
「じゃあ、一緒に行こうか」
スズハラがそう言ってくれたのがとても助かった。
「この歳になってコウちゃんはどうかと思うけど、クボタ呼びもどうもなぁ」
「いいよ。昔通りで。俺もソウちゃんでいいだろう?」
「もちろん」
ふたり並んで歩いていろいろ話した。
「俺さ、やっぱり歩道橋ってまだ怖いんだよね。コウちゃんは?」
スズハラが言う。
「いや。俺もまだ…」
そう答えながら、歩道橋であったことを思い出そうとした。おそらくスズハラと共に何かを体験したんだ。
「あれはなんだったんだろう?」
スズハラが言う。
「自分はさ、親父と一緒で整形外科だけど妻が精神科でね。一緒に開業するんだ精神科・心療内科ってことでね」
いきなり話題が変わって驚いていると、スズハラが話を続けた。
「結婚前に妻にあの時の話をしたんだ。歩道橋で見た指たちの話」

思い出した。

小学校を卒業した後の春休み。スズハラとふたりで別の友人の家からの帰りだった。
友人の家は小学校のすぐ近くで、スズハラと自分は割と近所だった。スズハラの父の病院は小学校を挟んでちょうど反対側にあったのを覚えている。
日暮れ前だった。いつも通りに歩道橋を渡り始めて少ししたところでスズハラが「気持ち悪い」とポツリと言った。
虫が這っていた。
毛は生えていないようだったが、動きは毛虫のようだった。
1匹だけではない、何匹もの虫が階段の両端に沿って、階段を上っていく。
自分とスズハラは身を寄せ合うようにして階段の真ん中を登って行く。
「急ごうぜ」
階段を上り切るとどちらからともなくそう言って駆け出した。
歩道橋の隅、奇妙な虫は何匹もの何匹も這っている。
「うわぁ!」
ふたり同時に悲鳴を上げた。
虫が、ものすごい数の虫が歩道橋の外灯の下で蠢いていた。
「これって、指?」
スズハラが言う。
虫だと思っていたのは人の指の形をしていた。
爪を頭に動いていた。
後はまるで引きちぎられたかのようだったが、黒くなっていてよくは見えない。
「うわぁああ」
ふたりで転げ落ちる勢いで階段を駆け降り、そのまま全速力で歩道橋が見えなくなるところまで走った。
たまたま自分の兄に出会った。
兄は自分たちのただならぬ様子に気づき、「スズハラの家まで一緒に行ってくれないか?」という自分の申し出に黙って頷いてくれた。
スズハラの家に着くまで三人は何も話さなかった。
スズハラが兄に「わざわざありがとうございます」と頭を下げた。
兄は「うん。あんまり気にしないで」と言った。
そのあと兄とふたりで家まで帰った。5分ぐらいの道のりの中で「歩道橋で気味の悪いものを見た」と兄に言ったら、兄は「あまり思い出さない方がいい」とだけ言った。

「妻は無理に克服しようとか忘れようとかしない方がいい、と言ってくれてね。今ではこうして歩道橋を渡れるようになったよ」
スズハラは言った。
「それでもあの歩道橋は無理だけど」
スズハラはそう言って顔を少し歪ませた。
「自分は小学校卒業してからずっと歩道橋を渡ったことがなかったんだ」
「え?」
「無意識に避けていたんだろうね。今日ここに来てなんとなく歩道橋を上るのが嫌だと思ったんだけど、上に来るまで理由がわからなかったんだ。漠然と気持ち悪いではなく、理由がわかってホッとしてる」
正直に言った。
「僕もさ、もしもあの日ひとりであの歩道橋を渡っていたらもっと辛い気持ちになっていたと思う。コウちゃんと一緒だったから、変な言い方だけど、自分がおかしいんじゃななく、あれがあそこに本当にいたんだと思えるからこうしてなんとかやってこれたんだと思う」
そうだ。あの時、あの奇妙な虫をひとりで見たのだったらどうだったろう?今更ながらゾッとした。
「あのさ。今更だけど、ひょっとしてコウちゃんのお兄さんもあの虫を見たことがあったのかな?」
何も説明をしなくても、自分たちのことを理解していたような兄を思い出す。
「どうだろう?何もあの話はしていないんだ」
スズハラはうんうんと頷いた。

歩道橋を降りてふたりで歩いた。
スズハラの建設中の病院をふたりで眺め、そのまま森林公園にふたりで行った。
連絡先を交換し合い、キツツキの話をしたが結局見つけられなかった。
「少し遠回りになるけど、美味しいコーヒーショップがあるんだ」と言うとスズハラが「いいね。寄っていこう」と言った。