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茉莉花茶の午後10時 4

後ろ髪を引かれまくりで病室を出た。
「退院できそうだったら連絡するし、そうでなくても連絡する」
見送る三日月さんが言う。
「午後は休めるので来ます」
「じゃあ午後の早い時間に警察が来ると思うから3時頃にでも」
「わかりました」
そしてまだソファに座っていた彼に向かって「また明日」と言うと「悪いね。でも待ってる」と言った。
マスターが同じ階にある宿直室に行くのに同行する。
「ご馳走様です」
男性看護師がにこやかに言う。
「いえいえ大したものでなくて」
宿直室からは微かにビーフシチューの香りがした。
「宇治川先生はお休み?」
「えぇ、仮眠中です」
「そう。まぁ、今は落ち着いたみたい。きちんと起きれたから」
「よかった。あとで伺ってみます」
マスターは「よろしくね」と言って宿直室を後にした。

マスターの車で会社まで送ってもらう。
マスターの店のある三日月ビルヂングと自分の会社は車で10分程度。
「すみません。連絡受けて動揺してしまって車を運転ヤバいかもと思ったんです」
「正しい判断だよ」
マスターは言う。
「それにしても、一連のことが全部がひとつに繋がっていたら楽だけど、どうだろうね?」
「自分にも何がなんだかわかりません。でも、自分の会社も絡んでいる話なので社長には報告しなくてはと思っています」
「それで明日は仕事なんだ」
「えぇ、まぁ」
マスターはふっと笑った。

会社前で車を降りる。
「ありがとうございました」
「多分、また明日だね」
「マスターも大変ですよね。お店もあるのに」
「蒼月に振り回されるのはいつものことだから大丈夫。君もいろいろ大変かと思うけど、頑張って」
マスターはそう言って去って行った。
ビルの駐車場は24時間出入りが自由で、防犯カメラも絶えず作動している。1階にコンビニエンスストアが入っていて、夜勤の人たちも地下の駐車場に停められるようになっている。
ビル内も各フロアの各出入り口にはカメラが設置されている。最後にフロアを出るものがそれぞれのフロアの警備システムを作動させる。
でも、エレベーターや階段はどうなんだろう?
カメラはついていたとしても警備システムはいつ誰が作動させるのか?
22時をとっくに回ったビルで明かりがついているのは一階のコンビニだけだった。
企業の入っているオフィスビルでも警備の死角みたいなものがあるのだから、大学だともっと緩いのかもしれないと、勝手に思った。
駐車場に停めていた車に乗り込む。普段はほぼ満車状態の駐車場も今は自分の車を入れて3台だけだった。
スマホが着信で揺れた。
彼からのLINEだったが、画面を見ていくつかのの着信があったことを知った。
「ヤバい」
それでもまずは彼からのメッセージを確認する。
「今日はありがとう。おやすみなさい」「明日は絶対帰ります」とあった。
もう寝たかもしれないが、おやすみのスタンプを送った。
既読にならないのを確認して、着信を確認する。
会社を出てから2時間で着信数がかなりあった。
それのどれもが仕事関係者で報告がほとんどだった。
田嶋さんから「遅くてもいいから連絡がほしい」というメッセージが入っていた。
この場で連絡しようか?嫌な感じがする。家に帰ってからの方がいいと判断して車を出した。

シャワーを浴びて、着替えを済ます。
コーヒーを淹れようとして思い直す。そういえばティーパックだがジャスミンティがあったような気がした。
「あいつが貰ってきていたような…」
紅茶を入れているボックスの隅にひとつだけ残っていた。
お湯を注ぐと独特の香りがする。でも、マスターが淹れてきたものと香りが全く違うような気がした。向こうの方が華やかな柔らかい香りだったような気がする。コーヒーも豆の種類で香りが全く違うものだし…と納得させた。
彼のいない夜というのはたまにある。でも、今日はひとりでリビングにいるのは嫌だった。
ジャスミンティの入ったマグカップを持って寝室に向かった。

田嶋さんに「遅くなりました。お電話いいですか?」とメッセージを送る。すぐさま既読になり、そして通話の着信があった。
「悪いね、こんな時間に」
田嶋さんがいささか声をひそめて言う。スピーカーのボリュームを少し上げる。ベッドに寄りかかり、ラグの上に座る。三角座りの膝の上にスマホを置き、マグカップはベッドサイドに置いているチェストの上に置いた。
「いいえ、こちらこそ。連絡が遅くなりました」
「ひとり?」
「えぇ、ひとりです」
「お邪魔しているかと思って」
「何言ってるんですか?」
本当に田嶋さんは何を勘繰っているのだろう?大方からかっているだけなのだろうけど。
「のんちゃんの車が駐車場にあるのに会社にいないようだったから」
「田嶋さん、会社に行ったんですか?9時頃までは自分もいたんです」
「あぁ、じゃあ本当にすれ違いだ。車があったからてっきりいると思ったんだ」
「すみません。急用でタクシーで出たもので。ところでお話というのは?」
わざわざ会社に来るほどの用事だ。
「例の件だけど」
田嶋さんは再び声をひそめた。
「企画が根本から見直しになりそうでね」
「根本から?」
「舵取りから変わるようなんだ。外務省から文科省」
それでは一度企画がなくなったも同じではないか?
「三日月玄円、知っているだろう?」
この国で経済活動をしているものなら知らない者はいない。この国の政界経済界におけるフィクサーと言われる人物であり、この町は三日月グループ発祥の地でもある。そして…
「どこかの誰かが三日月氏の逆鱗に触れたようで、この件で諸外国との橋渡しをしていた三日月グループが全てから手を引くと言い出したらしい」
彼が襲われた話は玄円氏には報告していないと三日月さんは言っていた。だとしたら…
「それはいつ発表なんです?」
「三日月グループがプロジェクトから抜ける正式発表はなかったらしいが、相手国からどうなっているのだと問い合わせやら抗議やらが入ったのは今朝らしい」
彼が襲われた件とは無関係とみていいのだろうか?
「予算の関係もあってそのままなしには出来なくて、二転三転した結果文科省預かりとなったらしい。通達文書がFAXで送られてきたところをみるとなんの引き継ぎもされていないとみた」
電話やFAXの番号はホームページなどで簡単に調べられるかもしれないが、関係者窓口のメールアドレスもわからない状態なのだろう。
「いっそ降りようかと思っているんだけど、その件について槻木沢さんに連絡をしたけれども連絡が取れないんだ」
「それはいつ頃の話ですか?」
「どうして?」
そう、確かに不自然な質問だ。
「あ、いや、知り合いが見かけたと言っていたので」
「君の知り合いが?」
電話の向こうの田嶋さんはさぞや怪訝そうな顔をしているだろう。自分は嘘が下手だ。嘘というか、取り繕うのが苦手だ。
こっそりとジャスミンティを飲む。喉は潤うけどちっともリラックスできない。
「実はこっちも槻木沢氏絡みでちょっとありまして」
「宵月教授かい?」
「そうですね」
「それで出掛けていたのかい?」
田嶋さんは察しがいい。
「明日、時間いただけますか?」
「電話でいう話じゃない、というわけかい?」
「そうですね」
田嶋さんは「ちょっと待って」と言うと、おそらくスケジュールを確認しているのだろう。
「朝9時とかでも大丈夫かな?近未来デザイン展の方の納品は?」
「大丈夫です。遅れていたメインの作品も美術館に納品済みです」
「じゃあ、事務所で落ち合おう」
「すみません」
「構わないよ。デザイン展の方の最終打ち合わせが10時半だからそれまでになるけど」
「わかりました。ともかく詳しくは明日」
通話を終えて、ふぅっと息を吐く。
田嶋さんに言えることはあまりないが、お互いのカードを揃えないと見えないものがありそうな気がした。
マグカップの中身を飲み干す。
眠れそうもないがだからといって何かできるような気もしない。
朝の訪れをひたすら待つしかなさそうだ。

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翌日の話はまた次のエピソードで…