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茉莉花茶の午後10時 2

ここは単なる個室ではなく、特別室と呼ばれる部屋なのだろう。カード式ではないテレビと小さな冷蔵庫。応接セットの他にもライディングデスクがあり、壁紙も透かしの花模様が入っていて、ほとんどホテルのようだった。
三日月さんは備え付けの電気ポットでお湯を沸かしている。
「お茶しかないけどいい?」
焙じ茶と玄米茶のティーパックが置いてある。
「俺、やります」
「いいよ。座ってて」
と、備え付けのカップホルダーから使い捨てのカップをふたつ取り出した。
「焙じ茶でいい?」
「はい。ありがとうございます」
そう答えると三日月さんはふふふと笑った。
「青藍からよく話を聞いているけど、青藍が一緒に住めるわけだよ」
お茶を応接テーブルに置きながら言う。
「いい感じの気い使いしいだね」
「え?」
「当たりもソフトだし。仕事もできるわけだよ」
向かいの椅子に座る。
「うちにスカウトしたいくらいだけど、まぁ、それは無理だよね。うち自体はあんまり仕事頼むことないけど、関連会社は割とキミんとこの会社、社長を頼っていろいろ頼んでいるようだから、これからも頼むよ」
三日月さんの「関連会社」がどこまでか計り知れない。
自分はおそらく少し間抜けた顔で頷いたのだろう。三日月さんが少し笑った。
「ともかく、連絡が遅れて申し訳なかった。てっきり大学から連絡があると思っていた」
と改めて言う。その顔からは笑顔は消えている。
「明日、午前中からもう一度検査をする。まぁ、見たところ怪我はないが精神的なところが気になる。ついでに人間ドックだ。何も食べてないからね」
そう言ってお茶を口にする。
そういえば自分も午後から何も食べていない。三日月さんはどうなのだろう?
「キミも食べていないだろう?そろそろ差し入れが来る」
こっちが考えていることがわかったかのように三日月さんが言う。
「昼過ぎに警察がここに来ることになっている。話をしてみて大丈夫なようならそのまま退院でも構わないが、実行犯が捕まるまでここにいても構わない。むしろそっちがいいんじゃないかと思っている」
うんうんと無言で頷くしかない。そうだ。警察沙汰なのである。
「槻木沢何某と関係があるかどうかも今のところわからないからね。もっとも現在は彼に付いていた調査員が彼が滞在しているホテルにいるんだが、今のところ動いていないようだ」
「あの、ひとつお伺いしてもいいですか?」
三日月さんは「答えられる範囲でなら」と言った。ひょっとして、自分が何を訊こうとしているのかわかっているのかもしれない。
「槻木沢氏を調査っていうのは?」
三日月さんは「守秘義務があるから全部は言えないけれども」と前置きをしてから話し始めた。
「簡単に言うとスパイ容疑がかかっているんだ」
「え?」
「荒唐無稽だろ?」
「え、いや、あの…地質学者ですよね?槻木沢氏」
「そうだ。よく知っているな」
「宵月から聞いてたもので」
三日月さんは眉を顰めた。
「青藍とどういう関係なんだ?」
そう問われて、自分は今まで彼から聞いた話と田嶋さんから聞いた話を三日月さんにした。
「彼にはひどく好意的という感じで話をしてきたらしいのですが、田嶋さんが受けた印象は嫉妬というかあまりいい感じではなかったようです」
「嫉妬?」
「おそらく能力だったり立場だったり、いろいろですね。政治家とかからも慕われているし」
「まぁ、それは、祖父が悪い。目に入れても痛くない可愛い孫だと公言して憚らないからな。俺や青藍はいい迷惑だ。もっとも目に入れても痛くないのは青藍で、俺は後継として早いうちにから連れ回されていたというので、少しニュアンスは違うけど」
三日月さんは自分で淹れたお茶を不味そうに啜った。
「俺たちを褒めとけばいいと思っている大人たちの間で随分捻くれて育ったよ、俺は。でも青藍が表に出られるようになったのはここ10年にも満たないからな。そんな大人の声など聞こえてはいないさ。話でしか聞いていなかった自慢の孫が思いのほか見栄えも出来も良くて皆驚いているんだろう?」
そういう三日月さんも彼に対しての評価は、彼らのお祖父様並みではないか?と思った。
「ただ青藍は三日月の姓を名乗ってないから、一般には三日月玄円の孫だとはあまり知られていないはず」
そういえば、「政界との太いパイプがあるらしい」というのは田嶋さんの言葉なのかそれとも槻木沢氏の言葉だったのだろうか?
「ところでスパイ容疑というのは?」
三日月さんは「そういえばその話だったな」と言うとお茶を飲み干した。
「槻木沢氏がアメリカの大学に所属しているのは知っているだろう?」
「はい」
「メキシコの恐竜化石発掘のチームに参加している」
「えぇ、聞いています」
「で、今回、青藍に翻訳を求めてきた本っていうのが2005年の発掘の記録」
2000年代としか聞いていないがおそらくそうだろう。
「その記録だが、書籍にはなっていないが、日本語の翻訳はすでにある」
「え?」
「槻木沢がそれを知らないわけはないだろう?」
すでに日本にあるという日本語訳は、スペイン語で書かれたものを英語に翻訳したものを日本語にしたもので、元のスペイン語版も英語版も今ならネットで簡単に見ることが出来る。
「ただ、こっちの役人はそれを理解していたのか?化石発掘など日本の役人が興味を持っているとは限らない。スペイン語で書かれた文章。化石発掘だと言われらたいていはそうですかで通る。そして本物の翻訳を誰かに頼む。わざとね。自分じゃないものがきちんと目を通したという証拠にもなる」
確かに。
「槻木沢が持ってきたデータは本当に2005年の発掘記録なのか?疑問を持った関係者がこっちに調査を依頼してきた」
槻木沢のバックボーン。日本での動き。
「たまたまイベントの担当者のひとりが趣味は考古学だった。ある程度そっちに明るい担当がいたから槻木沢をこのイベントスタッフとして招くことも不自然ではなく動いていた」
つまり最初はゴリ押し的なキャスティングがあったのかもしれない。
田嶋さんの話を思い出す。「失敗したと思っている。槻木沢先生がチームにいることも」他の選択肢もあったということかもしれない。
「だけど、逆に考古学に明るいからこそ疑問を感じた」
そこで調査が始まった。
「P大に来たのは知っていたが、まさか青藍に会いに来ていたとはね。面識もないし油断してたよ」
「アポなしでいきなりだったそうです。ただ、イベント企画に携わっているうちの田嶋には是非とも翻訳を頼みたい相手がいると話していたらしくって」
三日月さんは面白くないというように「ふん」と息を吐いた。
「おそらく、政府のお偉いさんと知り合いの青藍を咬ませておけば、何かあった時に表に出にくいとでも思っていたんだろう?」
そうなのかもしれない。
「おそらく、青藍を巻き込んだのは槻木沢の独断だろう。この件を依頼してきた相手は今その件のイベント担当から外されている。怪しまれているのに気がついた相手が外したんだ。向こうの中でもそれなりの立場にいる相手だ」
つまり、槻木沢氏と連んでいる相手の正体を三日月さんは把握しているということか。
「青藍を巻き込まなくても十分表に出ることはない」
と言った後「余計なことに青藍を巻き込むな」と言い捨てた。
自分も黙って頷いた。
「ところであの左手はどうしたんだ?」
包帯が新しくなっていたことで、おそらく三日月さんにも知られたと思っていた。
自らが掻いて作った傷であること、そして、傷つけていることに気がつかないでいたことを伝えると、三日月さんは心配そうに部屋の奥を見た。
「君と暮らすようになってだいぶ落ち着いたと思ったんだけどね。青藍は常に不安定だから」
三日月さんが所有しているビルにある水族館にたびたび行っては眠っているという話を以前聞いた時にどきりとした。
自分との生活にストレスがあるのかと思った。
それに対して三日月さんは「違う」とだけ言った。
「常に自分は生きていてもいいのか?と疑問を持っている奴だから、ここにいてもいい、ここにいてほしいと、俺はいつも青藍に言い続けている。君もできたら青藍にそう伝えてもらえないかな?俺の言葉だけではもう繋ぎ止められなくなっているのかもしれない」
「そんな・・・」
悲しいことを言わないでほしい、と言いかけた時、奥の方からカタンと音がした。

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3へ続く