茉莉花茶の午後10時 3

ふたりで慌てて、音のしたベッドに向かう。
カーテンを開けて中を覗くと、寝返りをうったのか彼がこちらに背中を向けている。
三日月さんがそっと近づく。
「青藍…」
声を掛ける。
三日月さんはこちらを見ると「寝ている」と言った。
点滴がなくなっているのに気がついた三日月さんはナースコールでそのことを告げた。
少しして男性看護師がやってきた。若い看護師で肩幅があり、制服がキツそうだった。
「無理言って悪いね」
点滴を外して処置している看護師に言う。
「いえいえ、いつもお世話になっているんで」
知り合いなのだろうか?
「今日は?」と三日月さんが訊ねると「僕と宇治川ドクターです」と答えた。
「それはよかった。安心して任せられる。もうすぐ差し入れが来るから受け取ってくれ」
「いつもすみません」
処置を終えて、看護師はぺこりと頭を下げた。
「こっちこそ。うちの関係者の度に無理言っていてもらっているんだから」
なるほどここは単なる特別室ではないということか、と納得した。
看護師が部屋を出るのを見送ると、自分は再びカーテンの中に入った。
「おい、そろそろ目を覚ませよ。あんまり寝てると心配になる」
三日月さんが眠る彼の頭を撫でて言う。
その声が聞こえたのか、もぞもぞとこちらを向くと目を開けた。
「おはよ」
掠れた声が言う。こしこしと目を擦る仕草は幼い。どうやら寝ぼけているようだ。
「おはようの時間じゃないけどな」
三日月さんが言う。
と、その時、部屋のドアを誰かがノックした。
「遅くなりました」
確か、三日月ビルヂングにあるダイニングバーのマスター。店以外の場所で会うのは初めてなのでかなり印象が違う。
「いや、こっちも無理を言って悪かった」
三日月さんがカーテンの中から言う。
「いえいえ。こういう非常事態はお互い様です」
マスターはとても紳士的だった。ピクニックバスケットのような籠と、小ぶりのボストンバッグを持っていた。
「宿直室にも届けてきました」
先ほど話していた差し入れだろうか?
「おまえ、明日の朝まで絶食だけど、お茶ぐらいは飲めるはずだ」
三日月さんはベッドを起こす。
「絶食?」
ぼんやりとした口調で訊く。
「検査があるからな」
「検査?何の検査?」
「いろいろな。大丈夫。俺もいるから」
「蒼月も検査?」
「俺は違う」
口調が拙い。確実に寝ぼけている。そして話しているうちにまた目を閉じる。
少し心配になる。
三日月さんがぽんぽんと頭を撫でる。
「とりあえず腹ごしらえだ」
三日月さんがカーテンの中から出てくる。
「おや?3人分だ。僕の話を聞いてなかったのかな?」
テーブルにセットしながらマスターが言う。
「青藍くんは食べられないと言ったのに」
「鴇川も食べていけばいいよ。時間はあるんだろう?」
「まぁ、クローズまでに戻ればいいんだけど」
クラブハウスサンドイッチとタラモサラダ。マスターの店「slight」の人気メニューでもある。「わずかな時間でも満足してもらえるように」と「わずかな、少しの」という意味の「slight」という店だが、客はついつい長居をしてしまう。昼間もランチをやっているが圧倒的に女性客が多くなかなか男の自分は入りにくい。夜に何度か、仕事の接待の後などに会社の子と寄らせてもらったが、気をつけないと閉店までいてしまう。居心地のいい店だ。
「あ、それからこっちは十遠部さんから預かってきたよ」
とボストンバッグをマスターは三日月さんに渡した。
「ありがとう。助かるよ」
「トワべさん?」
確か、家の庭の手入れに定期的に来てくれる人だ。
「所謂、執事さんだよ。三日月家の」
マスターが言う。
「執事さん?」
十和部さんが来ると彼がとても嬉しそうに、庭仕事をする十和部さんの後をついて歩くので、親戚か何かかと思っていた。ただ、十和部さんの方が少し接し方が堅いような気がしていて、関係が気になっていた。
今更だけど改めて、彼の家は一般的なものではないと感じた。
「コーヒーもあるけど、ジャスミンティも持ってきたよ」
マスターはバスケットの中からポットを2つ取り出した。
「俺はコーヒーでいいよ」
三日月さんが言う。
「飲まず嫌い」
マスターが言う。
大家と店子の関係なのに、マスターは三日月さんに遠慮がない。一階の漢方薬局の流さんとは幼馴染だと聞いていたけど、マスターもそういう関係なのだろうか。
「こういう時はリラックスできるものを摂取した方がいいんだよ」
「この食事にはコーヒーだよ」
マスターは「ま、そうだよね」と言って笑った。
「実は青藍くんに持ってきたんだけどね、ジャスミンティ」
薬が抜けていないせいなのか、目を覚ましたと思っても再び眠ってしまう。本当に薬のせいだけだろうか?
「ここに来る前に緋村くんのところに寄ってきたんだけどね」
「わざわざ悪いね」
「彼も青藍くんのことを心配していたよ」
ヒムラとは誰だろう?この事態を知っているのだろうか?
「槻木沢を調べていた調査員だ」三日月さんが言う。
「交代は要らないと言ってたけど、あとは送ると言えばわかると」
「わかった」
そのあとは食事を用意してくれたマスターの店のクマイくんの話をしながら食事を済ませた。クマイくんは勤め始めて3ヶ月だけど、マスターのレシピを完璧に作ることができるなかなかの逸材だと教えてもらった。
「明日は?」
マスターが三日月さんのカップにコーヒーを足しながら訊ねる。
「午前中で検査が終わって、午後から警察が来る。それが終わったら予定はない」
「明日の食事は?」
「朝は青藍の分食べるからいいよ」
「昼は?」
店でのマスターとは違う、少しせっかちな話し方だ。ふたりのやり取りはなかなか面白い。マスターがこんなに世話好きな人だとは思わなかった。
「あのさ、君のその食べたり食べなかったりという不規則なのって良くないよ。今夜だって、彼がいるから食事の準備をさせたんだろう?」
とこっちを指して言う。
「君たちはどうも生きることの基本的な部分に無頓着というかなんというか」
やれやれと大袈裟なジェスチャーでマスターは言う。
「君も青藍くんの食生活とか健康管理とか大変でしょ?」
「え?」
急に話を振られても何も言えない。本当は「そうですね」と頷きたい。
「俺は健康管理はできてるさ」
「食生活偏りまくりでよくいうよ。君のその美肌は僕や十遠部さんたちの努力の賜物だよ」
「おまえ、興奮しすぎ」三日月さんが言う。
マスターは再び肩をすくめた。
と、その時三日月さんの視線が奥に向けられた。
カーテンが揺れた。
「青藍!」
三日月さんの声に慌ててベッドに駆け寄ると彼が立ち上がろうとしていた。
「大丈夫か?」
手を貸して立ち上がらせる。病院のパジャマだろう。サイズが合っていなくて肩が抜けている。
「喉が渇いた」
「待ってろ、用意する」
とベッドに座らせようとしてると「青藍」と三日月さんが呼んだ。
「蒼月兄さん?」
ふらふらと声のする方に歩いていく。あぁ、やっぱり寝ぼけている、そう思った。
「あれ?どうして蒼月兄さんがいるの?」
「おまえ、ここがどこかわかっている?」
キョロキョロと周りを見て「あれ?」と言う。
「青藍くん、座って」
支えて三日月さんの隣に座らせる。昼食は食べただろうか?先ほどのマスターの話を思い出す。
「ふぅ」と息を吐きながら背もたれにもたれかかる。
「大丈夫か?」
答えず目を閉じる。
「寝るな。水だ」
三日月さんが新しいペットボトルの蓋を開けて、両手で持たせる。
「うん」
とは頷くが口にしようとはしない。
三日月さんはペットボトルを取り上げて、コップに注ぐ。そして口元に持っていく。
「目を開けて。飲むんだ」
「ふらふらする。気持ち悪い」
「でも喉が渇いているんだろう?」
のろのろとコップに手を添える。
こくりとひと口飲む。
「もう少し飲むんだ」
言われるままにもうひと口水を飲む。
「あったかいのが飲みたい」
そう言うとコップを三日月さんに押しやるようにした。
「青藍くん」
マスターが声を掛けた。肩がピクンと揺れた。
「ジャスミンティあるけど飲むかい?」
「ジャスミンティ?」
マスターがカップに注ぐ。独特の香りが漂うも自分の知っているそれとは少し違うような気がした。
マスターからカップを受け取ると自然とその香りを嗅いでしまう。
「すごく香りがいいですね」
「青藍くんに飲ませたくって、とっときのやつ淹れてきた」
マスターは言う。
自分たちのやり取りにそっと目を開けた彼はじっとこちらを見ていた。
「どうした?」
彼は改めて自分たち3人を見た。
「ここはどこ?なんかすごいね。僕の好きな人ばかりがいる」
三日月さんはその様子をじっと見ていたが、コップをテーブルに置くと両手で彼の肩を掴み「しっかりしろ。戻って来い」と肩を揺らした。
「落ちるなよ。ここにいろ」
三日月さんがそう言って抱きしめる。
彼は恐る恐るというように、手を上げ、三日月さんの背中に手を当てる。
「俺を、俺たちを残していくな」
「あ」
彼の目が変わった。
「兄さん?」背中に回していた手が、三日月さんの背中を撫でる。
三日月さんがそっと離れる。
「心配したぞ」
「えっと…ごめんなさい」
「おまえは悪くないのだから謝るな」
そう言って頭を撫でる。今日幾度か見るその仕草だ。
「ほら、ジャスミンティ。マスターのとっておきだって」
そう言ってカップを差し出すとこちらを見て受け取った。
「ありがとう」
いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
香りをゆっくりと吸い込む。そして、ゆっくりと口をつけて、ひと口飲んだ。
「おいしい。これなら蒼月兄さんも飲めるよ」
「いいからおまえが飲め」
そう言われて彼が笑う。
三日月さんがジャスミンティを飲まないことを彼も知っているというのが当たり前だがなんだかおもしろかった。
急に日常が戻ってきたような気がした。
彼が笑うだけで、こんなにホッとできる。
「お腹空いたんだけど」
誰にとでも言うわけでなく彼が呟く。
「明日の検査までお預けだ」
「何それ?何の検査?」
「いいから」
「ひどいな」
ぷぅッと頬を膨らましながら、大事そうにジャスミンティを飲む。
「ホットドックを作ってきてあげるから我慢して」
マスターが言う。
「クマイくん手作りのソーセージで作ってくるよ」
「夜は何がいい?」
自分が言うと「カレーが食べたい。スープカレー」と答えた。
「なんだよおまえら、その料理できますアピール」
三日月さんが抗議する。
「君も何か作るといいよ。青藍くんは舌が肥えているから、青藍くんが美味しいと言ってくれるかはわからないけど」
マスターに言われて、三日月さんはそっぽを向いた。

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ひとまず4にてこの日は終わります。