見出し画像

「リンゴ」と「かもしれない」の話

僕の子供たちが学校に行くようになって、

「どうして面白くもない科目を勉強をしなきゃダメなの?」

と聞いてきたら、

「それは、人に優しくできるようになるためだよ」

と言ってみようと思っている。



そう言うことで、彼女たちが納得するかどうかは分からないけれど、

一度は、そういうふうに言ってみようと思う。




大学を出て、コンサルタントの道を歩いていくなかで、

ふと、気づいたことがある。

「人によって、アタマの使い方が違うんだ。」

という、言われてみれば当たり前のこと。



言うなれば、

アタマの中で、標準的に起動するアプリケーションが違うようなイメージ。

物事を理解したり、考えを進めたりするとき、

Wordで文章が出来上がっていく人、

Excelで表やグラフが見える人、

Powerpointで図形が描かれる人、

動画が動き出す人、

写真や絵が浮かぶ人...



ある程度は、

色々なアプリケーションを併用して、

状況に応じて使い分けられることが必要なのだけれど、

特に意識せずアタマを動かし始めた時に、

自然と起動するアプリケーションは、

人によって、だいたい決まっているように思うし、

自分として「あ!分かった!」と落ち着きを得るのは、

そのアプリケーションにおいてスッキリしたときであることも

多いように思う。




色々な人と、

話し合いながら、合意し合いながら、

モノゴトを進めるとき、

衝突が起きるのは、

このアプリケーションの違いであること、

さらに言えば、

アプリケーションが違うことを自覚できていないこと、

ということが多いように実感する。



自分とは違うアプリケーションの人が

自分とは違った結論を言っているとき、

その結論が違っている理由がアプリケーションの違いにあるのだと

自覚していないならば、

その相手のことを自分のアプリケーションで以て論破しようとするし、

場合によっては相手を

「アホ」だと心の中で判定してしまうことだってある。

ほんとは、アプリケーションの違いに優劣はないはずなのに!



必要なのは、

アプリケーションの違いによって発生する違いを

「翻訳」し合うことなのに。



チームワークというのは、

それらの違いを活かし合いながら立体的な像を描くことなのに。




このことに気づいたとき、僕は、かなりハッとした。

学校に行き定期試験を受け、大学受験をしてきた自分にとって、

「アタマの良さ」というものは、

1つのモノサシで測れるものだと無意識に信じていた。

(妄信の猛進は盲目...)



科目によって得意不得意はあったとしても、

それは努力によって平均点を底上げするべきものだなと思っていただけで、

アタマの使い方が人によって違い、

しかも、その違いに優劣はない、

という発見(事実、と言ってしまっても良い気がする)は、

僕の世の中の見え方を相当に変えたと思う。



それと同時に、

それを発見していない人々の多さにも驚いた。




このアプリケーションの違いというのは、

文系・理系の得意不得意であったり、

もう少し細かくは、例えば、大学での専攻だったり、

そういったこととも重なっているところがある。



木から1つのリンゴが自分の頭に落ちてきたとき...

重力について閃く人もいるだろうし、

食べてはいけないリンゴを巡る人類の始まりの話について

考える人もいるだろうし、

果物の栄養について考える人もいるだろうし、

リンゴが市場で売られ消費者の手に届くまでの経済について

考える人だっているだろうし、

素晴らしいポエムが湧き出てくる人もいるだろうし、

誰も見たことがないアップルパイを思いつく人だっているかもしれない。



その考えの違いに優劣はないし、

そんなふうに、

色んな人々によって、この世界は成り立っていて、

色合いが豊かになっている。


世の中に数多ある学問の違いというのは、

乱暴に言ってしまえば、

「我々とは...」という問いに対するアプローチの違いだと理解している。


観る角度が違ったり、粒度が違ったり、観る道具が違ったり。



学校で習うことは、

せいぜい、

それぞれの学問領域という「知の城」の入口の手前にある

門に続く道の端っこ、

くらいでしかないのかもしれないけれど、

それぞれの領域の雰囲気くらいは掴めるはず。


その雰囲気を掴んでおけば、

自分とは違うアタマの使い方をする人と意見がぶつかっても、

相手を論破したり、アホと決めつけたりする前に、

「ひょっとしたら、この人は、

あちらの『城』の方から来ている人かもしれない」

と歩み寄れるだろう。



この「かもしれない」が優しさに繋がると思う。

思考やコミュニケーションには、

小さじ1杯分の"躊躇い"が必要だと信じている。

それが、"溜め"に繋がり、"深み"を生む。





それから、子供たちには、

自分とは違うアタマの使い方がある可能性に対して敏感になるためには、

外国語と古典も大事だ、

とも言うかもしれない。



外国語は同じ時代の違う文化の人たちと語ることだし、

古典は自分の国の昔の人たちと語ることになるから。

ただ、ここまで言うと、

「お父さんは無理なことを言って、

アレコレと勉強させようとしているだけだ」

と子供たちに嫌われてしまうかもしれない。



それはゴメンだから、

結局、僕は、

「まぁ、学生も大変だよねぇ」と、

お茶を濁して、ビールを飲むだけかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?