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祈る顔 お念仏の顔 安心の日暮

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

年の初め。
年始というのは、「さあ、これから頑張るぞ」と新たな目標を立てたり、志を新たにしていく一つの節目であると思います。
皆さんこれから訪れる2021年がどうなるのか、期待と不安を持って未来に目を向けている時ではないでしょうか。

ですが、そんな未来の希望に満ち溢れている時に、ついついおろそかになってしまうのが「今」という時間です

昨年、2020年は新型コロナウイルスの世界的なパンデミックがおこりました。
日常のすべてにおいての感染対策の徹底、ソーシャルディスタンスの確保の為に、これまであたりまえと思っていた生活はなくなってしまった。
私たちの日常は変化し様々な困難に向き合わねばならない一年でありました。
その様な激動の2020年を、力を合わせて乗り越えることで迎えることが出来たこの新年です。
だからこそ一度立ち止まって、お陰様で「今」があることに目を向けてほしいと思います。

なぜ、「今」なのか。ここに、浄土真宗のお心があるのです。

年始の時期

毎年年始の時期に、必ずテレビで目にする姿があります。
それは、人々が手を合わせている姿です。
普段、手を合わせる機会がないような方でも、初日の出や初詣に集まり、この時ばかりはと熱心に手を合わせている姿が取材されテレビで放送されています。

この人たちは、いったいなぜ手を合わせているのだろうか?
それは、テレビを見ていると初日の出や初詣に集まって手を合わせている人々に投げかけられる定番の質問でわかります。
取材陣は「何をお祈りしましたか」「何をお願いしましたか」と質問をなげかけます。
そう。祈願についての質問です。
取材を受けた人々は、「こうなるようお祈りしました」「こうならないようにお願いしました」と自身の祈った願いが未来において成就していることを期待し取材陣に発表してくれる。

そうです。年始に手を合わせている多くの人は、願い祈っているのです。
その姿は未来をたよりとして、希望に満ち溢れている何とも輝かしい姿だ。
ちなみに筆者はそのような姿が大好きだ。

「祈る」

だが、毎年、そのような放送を見て思う事がある。
それは「この祈願した人の中でいったいどれだけの人の願いが成就できるのだろう」というものである。

「祈る」という言葉には、『広辞苑』によると、「神や仏に幸いを請い願う。祈願する」という意味「心から望む。希望する。念ずる」という2つの意味があるそうです。

この祈るという行為。

一つ目の「神や仏に幸いを請い願う」という意味、二つ目の「心から望む。希望する。念じる」という意味、どちらの行為であっても、行いの主語は「私」です。
そんな私の「請い願う幸い」や「心から望む」結果が出るのは、いつだろうか?

ましてや、本当に私の請い願うとおりの、希望どおりの結果であろうか?

そうなんです。
人の娑婆の願いは、祈っても結果が出るまでわからないのだ。

結果が出るまで分からないことを、ささえにする。

それって、どうでしょう?

ここで、誤解をしていただきたくないのが、希望を持つことを否定しているわけではありません。

しかし、人々は新年という節目に、確定していない未来に希望をもって、未来をたよりに生活を始めて行く。

筆者自身も新年に目標を立て、こうなったらいいなという希望を持って志を新たにしています。
未来に期待することは大切な事です。
必要な事です。

ですが、まだ、何も決まっていないこと。
不確定な未来だけを頼りにするだけでは、それは、結果が出るまで、その不確定な未来に振り回されながら生きて行くという事になってしまう。

未来への不安を抱えたまま生活し、もしも、祈った願いが成就できなければ、さらに苦しみを深めてしまう事となる。

まだ確定していないものを、たよりにした生活。ある意味では、ギャンブルなのかもしれません。

未来だけを見てしまうと、なかなか安心ってできないものであるのです。

だからこそ、「今」に目を向けてほしい
お陰様で今があるという視点を忘れないでほしい。
「今」の自分に安心出来たら、不確定な未来に安心して希望をもち進んでいける

そのようなお救いが浄土真宗のお心であると私は受け取っています。

「今ここで」の阿弥陀様のお救い

浄土真宗は阿彌陀という仏様の本願をひとすじに聞信するご宗旨です。
それは、私が阿弥陀様に救いを請い願う前に、「あなたをほうっておくことができない」と、先手をかけて私に「もう大丈夫。どんなあなたでも大丈夫」と抱きかかえに来てくださる。そんな阿弥陀様のお心をきかせていただく御教えです。

阿弥陀如来の救いには、「私達の救いを請い願う」行為に用はないのです。
用がないだけでなく、私たちは自分の思い通りの結果を請い願う事に囚われてしまっては、自分の思いが優先してしまい、阿弥陀様の「もう大丈夫」というお心が受け取れない私となってしまう。

だけれども、理屈ではわかっていても、なかなか、普段の生活の中で「もう大丈夫」といただくことがむつかしい私達です。
ましてや、新年さあこれから頑張ろうと未来に希望が満ち溢れている時です。
普段にまして、希望と比例して、不安が生まれてくるときであると思います。

だからこそ、「今」の私に目を向けてみてください。
今なにをするのか考えてみてください。

この命は、阿弥陀様から、そして、多くの仏となられた方々から「もう大丈夫。どうなっても大丈夫。」といただいて、お陰様で「今ある命」なんです。

私の思いを見れば不安はなくなりません。だけど、不安があっても、安心していい
そのような命を今いただいているんです。


「もう大丈夫」な命を今いただいているから、安心して未来に希望を持ちながら生活させてもらえる。
そんな、姿が「南無阿弥陀仏」お念仏をいただいている日暮なのではないかと思っております。

こんなことを書いていたら、頭の片隅から、どこかで見た掲示板の言葉を思い出しました。

祈る合掌の顔はけわしく 南無阿弥陀仏の合掌の顔は和か

ふと思い出しただけなので、間違っているかもしれませんし、誰の作かもわからないので正解を知っている方は、教えてください。

南無阿弥陀仏

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